うまくやった人のなれのはて

という言葉で政治家の伊吹文明先生が、日本の企業の雇われ社長たちを評しているのをテレビで聞きました。

信念とか倫理観、ビジョンみたいな柱がないで、その場しのぎの最適化をくりかえした結果、人間的魅力がない存在になっている可能性はありますね。

善悪はよくて拮抗、とらわれないほうが短期的には結果を得られる

というのが私の正直な実感です。

私もいつごろからか善悪で動いてはいません、面倒なことになるかどうかだけが判断基準です。で、それがたまたま悪をさけたような言動が多いというだけです。

まず、われわれがなんとなく感じる善悪という二項対立での概念自体が、今の人類の恣意的なモノであると思われます。昆虫由来の高等生命がいたとして、我々の倫理感とはかけ離れた原理で動いてそうですよね。

善悪はファッション:だが善をもとめずにはいられない

アメリカの大企業なんかの重役にサイコパスの人が結構いるなんて話を聞いたことがあります。そりゃ、倫理感がほぼなければ冷静に結果がでるような操作的な言動をできるでしょう。

この世をゲームにたとえるとします

この世をゲームに例えること自体の是非はいまは問わないものとします。

ふつうゲームにはある種の終了条件があることが多いのですが、まず往生してしまうのは、この世に終了条件や勝利条件というものがあるのかどうかさえ分からないという点です。

「あなたがこの世にいま存在する意味を(もしくは無意味であることを)あなた自身は知っていますか?」

この問いに即答できる人はたぶんいないのではないでしょうか。ここらへんは、アンドロイドなんかが現実的になれば、

「ワタシハ、ニンゲンにホウシすることをイトしてセイゾウサレマシタ」

みたいな答えをするのでしょう。

私は自分がこの世に生まれた意味(や意図)みたいなものがあるのなら、それに従うかどうかは別にして、ぜひ知りたいものだと思っています。

私がいまある種の天命じゃないかと感じているのは、”母の世話をすること”です。たぶん私が17歳のときに父が亡くならなかったら、若いころアメリカへ渡っていたと思います。いま、老いて認知症になった母の世話をすることに父との暗黙の約束を果たしているというある種の満足感を感じています(タクシーでクソもらされたりとかいろいろしんどいものの)。

もうちょっといろいろ書けるつもりだったのですが、気が向いたら加筆します。