死んだら無になる?

いつ頃からか私は、死んだらすべて終わりで、すべてが無に帰すると思っていましたが、それも地獄や天国があるというのと同じ類の、ある種の偏見だなと最近は思っています。

まぁ、若いころ理系の教育を受けたので、いつの間にか唯物論的な考え方になっていたわけです。

しかし、そんな理系おっさんである私でも、量子力学で意識がなんらかの”意味”をもつ可能性がでてきている以上、すべてが無に帰するかどうかは怪しくなってきました。

欧米ではまじめに臨死体験や生まれ変わりなどの研究をしている学者もいるようです。

とはいえ、やっぱり輪廻転生はまだ信じられません。

死んだらどうなる – わからない

で、止まっています。

 




風呂にはいれるのがうれしい

毎日のちょっとしたうれしさで、風呂がけっこういいなと最近あらためて感じています。

いまは冬ということもあるんでしょうが、ゆったり湯舟につかっているとなんともいえずリラックスできます。

そうやって、のんびり風呂につかって

「あぁ、いい湯だな」

と言ってられる身分というのが嬉しいです。いちおう毎日風呂にはいれる経済状態なので、ただただ湯につかっているとホッとします。

ベルサイユ宮殿でウェディングをするというのも経済力があればやってみたいネタですが、いまは手近な嬉しさを身の回りに再発見してよろこんでいます。

平和をただ願うだけの人はうっとりするほど無力

まぁ、私のことなんですが…

私は自分の心に関しては50年近く付き合ってきただけあって、なにに喜びを感じ、何に苦痛を感じるかがだいぶわかってきて、いまは結構ハッピーです。

また、自分が直接触れ合う自分の家族についても、そこそこリーダー的な役割をこなして、平和でハッピーな家族だと思っています。

ただ、これがこと自分の心、自分の家族の外のことになると、自分でもうっとりするほど無力です。そういう地位にもないし…

私が望んでいるのは、熱狂的に支持される人気だけで、無茶なことをやるリーダーとかではなく、いまのいろいろな問題を”原理的”に解決する実行力とヴィジョンをもった人です。

「なるほど、そういうふうにやれば、世の中が平和にならざるを得ないですね」

とみんなが合理的に判断できるヴィジョンとそれを実行する胆力…。

たとえば、核兵器の放棄なんてのが良心的な人たちは好きですが、はたして、”武”を放棄するということがほんとに長い目で見た平和に結びつくのかとか(映画エイリアンみたいな化け物が地球に降ってきたときどうしますかとか…)

いまビデオ・ゲームのウィッチャー3をまたプレイしているんですが、最後にシリが女帝になることを選び、

「いくらウィッチャーとして優秀になっても、世界をかえられない…」

と自分の養父兼ウィッチャーの師匠である主人公ゲラルトに伝える場面は忘れられません。

人にはそれぞれ適性とか与えられた立場とかいろいろあって、私は残念ながら自分の心や家族をハッピーにするぐらいが限界なのかなと、強大な自我を抱えた私としてはすこし寂しい気分と同時にそれでいいじゃないかという満足感もあります。