つぎに私が何かを”決意”したらたぶんそれはお別れのとき

ロスチャイルド家のど根性出世物語は映画化すべき

神王さん大丈夫でしょうか…

トランスヒューマニズムの動きは、良い悪いは別としてとまらない気がする

トランスヒューマニズム(英: Transhumanism)は、新しい科学技術を用い、人間の身体と認知能力を進化させ、人間の状況を前例の無い形で向上させようという思想である[1][2]。省略して>HH+と書かれる場合もある。日本語では「超人間主義」などと訳される[3]。トランスヒューマニズムは人間の機能拡張やその他将来の科学技術の開発・使用により、将来起こりうることを研究する学問でもある[1][2]

Wikipedia トランスヒューマニズム
つばさの党 黒川代表

たとえば、”人間の身体にメスを入れて医療行為としての手術を行う”ことも当初はかなり感情的な抵抗感を人々は持ったはずです。でも、いまはこんな感じですと。

われわれの文明の大きな流れを見ると、トランスヒューマニズムはほぼ不可避だし、やめろと言ってもやる人はでてくるでしょうと。

あと、金属製の機械だと拒絶感を持つ人も、有機体(肉)の部品なら自分の身体に受け入れてもいいって感覚のひともそこそこいそうだなと。

すべてが無料になる世界

すべて無料っす

どうやって”すべてを無料”にするかというと、まぁおもにテクノロジーの進歩に期待ですね。

たしかに(どうやってそういう社会にするかは置いといて)、ゴールとしてすべてが無料の世界というものを想定すると、いまの社会の多くの問題が解決するのかなと思います。

インターネットが普及する以前に、テレビ電話というものがあった気がしますが通信費がバカ高かった気がします。いまはDiscordやスカイプでどこでもほぼ無料でそれができると。

古事記(ふることふみ) 日本の神話

古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)は、一般に現存する日本最古の歴史書であるとされる[1]。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し[2]元明天皇に献上されたことで成立する[3]。上・中・下の3巻。内容は天地開闢 (日本神話)から推古天皇の記事を記述する。

Wikipedia 古事記
わかりやすく古事記の内容がまとめられています

12月20日(日)POWER TO THE PEOPLEデモ

わたしが普段から応援している朝堂院大覚総裁も出演なさるようですね。

朝堂院大覚総裁(JRPtelevision)のキャラが濃い

いまのテレビの報道などにわたしはかなり違和感を持っていることは事実です。

持病の都合で参加できるとは言い切れないですが、当日に体調が良いようならフラッと行ってみようかなと思っています。

戦争で負けた国のほうが栄えるってのは原理的にナイ

国を治める主体としての権力中枢が、手下の国民に命懸けで戦わせて、せっかく勝ったらこんどは、勝った自国に有利なように負けた国をコントロールしたいって思うのが人情じゃないでしょうか。

わたしは歴史はうといほうですが、昔は人種が違う場合、負けた国の民は基本、皆殺しか奴隷になっていたはずです(あと追放とか…)。

暴力(混沌・カオス)に対抗するモノとしての武力(秩序・オーダー)

まぁ、われわれが3次元のこの世にとりあえず存在する以上、物理的な暴力には物理的な武力で対抗するほかないでしょうという結論です。

ガンジーは一発芸
釈迦もダンプカーでど~んとはねれば死ぬ問題
神、儒、仏の習合としての武士道

国家にも武士道精神を

 悪魔勢力に操られていたGHQは、戦後の日本において、「道」と名のつくものすべてが対象となる「武道禁止令」を出しました。ですから剣道まで全面的に禁止されたのです。そんな中、笹森(ささもり)順造(じゅんぞう)と言う国会議員が、剣道を復活させようとGHQと交渉を重ねました。彼自身も剣術家であり、彼はGHQに掛け合い、「剣道は人を殺すことを目的に技を磨くのではなく、その最終目的は、人と人がお互い戦わなくても済むように剣を置くことだ。剣道とは日本の精神的、歴史的な文化である」と説きました。すなわち笹森氏は「剣道とは武道であり、武道とは活人剣である」と説いたわけです。

 しかしGHQはこの申し出を聞き入れず、遂には、「では、実際に試合をして、お前の言っていることを証明して見せろ」と言ってきました。つまり「試合してみせて、本当に剣道が人殺しの道具ではなく、平和の道具であるその証明を見せろ」というわけです。

 そしてGHQは、米海兵隊の中で最強の男を選び出して、日本人との試合を提案しました。しかし米兵は本物の銃剣を使い、対戦相手の日本人を殺しても構わないが、しかし日本人は木刀を使い、防具も着けさせない、「剣道が活人剣であることを証明しろ」と、何とも酷い条件を突きつけてきました。

 しかし笹森氏は、このGHQの条件を潔く受け入れて、そして國井善弥(くにいぜんや)という一人の侍を選びました。國井善弥は、鹿島神流の十八代の宗家です。鹿島神流とは茨城県の鹿島神社に古くから伝わる古武術流派であり、彼は「今武蔵」とまで呼ばれていました。

 そして侍と米兵との間で、日米の誇りをかけた戦いが行われました。体格の大きな米兵は本物の銃剣を手にし、國井は木刀を手にして対峙しました。米兵は殺気に満ちていたそうですが、一方の國井はいたって冷静で、静けささえ漂っていたと言います。

 國井が礼をして、木刀を中段に構えようとした、その次の瞬間、米兵は銃剣を國井の喉元目がけて突きだしてきました。しかし國井は半歩下がってこの攻撃を見事にかわしました。すると米兵は、そのまま突進を続けなが210ら銃剣を回転させて、國井の側頭部を銃剣の底で打とうとしました。屈強な米兵による重く硬い銃底での即頭部の殴打、もしもこれが当たれば即死です。

 しかし次の瞬間、國井は半歩前進して、この銃底の攻撃をまた見事にかわしました。すると今度は逆に、突き進む米兵の後頭部に柔らかく木刀を当てて、そのまま突進する米兵の力を上手く利用して、相手を床に押し倒してしまいました。殺気立つ米兵は、四つん這いになって床に手をつきました。さらに冷静な國井は、そのまま米兵の後頭部を木刀で柔らかく押さえました。四つん這いになった状態で、上から頭を体の内側に向けて押さえつけられると、人間は身動きができません。

 「勝負あった!」の声がかかりました。すべてが一瞬の出来事でした。國井善弥という侍は圧倒的な実力差で、一切相手と剣先を合わすことも、相手を傷つけることもなく、見事に海兵隊最強の米兵を制してみせたのです。すなわち彼は本当に、「剣道は人殺しの道具ではなく、平和の道具であり、活人剣を目的する」ということを証明してみせたわけです。この事実は、GHQ内部に衝撃を与えました。これがきっかけで、「武道禁止令」が解除になった、と言われています。

 しかし戦後の七十年の様々な洗脳工作によって、武士道は解体されてしまいました。その結果として、「日本人が暴力と武力の違いが分からなくなった」という悲劇があります。「暴力」とは、何も生み出すことのない破壊の力であり、憎むべき悪であり、何としてでも拒否していくべきものです。しかし「暴力反対!」とか、「暴力が嫌いだ!」とか、「平和が大切だ!平和を求めよ!」と、いくら声高に叫んだところで、理想だけでは暴力は無くなりません。やはり現実には警察が必要であり、そして世界は未だに戦国時代の様相があります。

 ですから「暴力」を抑止し、拒否するためには「武力」が必要です。そして「武力」とは、「武」という文字が、「戈ほこ(矛)を止める」と表記するように、そして「戈」とは、古代の中国で使われた戦争の道具であるように、「戈を止める」とはすなわち、「暴力を止める」ということに他ならないわけです。

 つまり真の剣道・武道の極意が、「人を生かす剣」、「活人剣」であるように、武士道および武道の中で得られる「武力」とは、その憎むべき「暴力」を抑え、平和を守って人を生かすための力のことを言うわけです。

 合気道の達人である塩田剛三という武道家は、弟子に合気道の極意とは何かと訊かれて、「合気道の極意とは、自分を殺しに来た人間と友達になることである」と述べています。また合気道には試合さえ存在しませんが、その合気道開祖の植芝盛平という方は、「合気とは愛気であり、宇宙と調和することが大切である」といったことも述べています。すなわち「暴力」というものが破壊する力であるのに対して、「武力」とは調和の力なわけです。そして武道とは、そうした調和の力を磨くために、心技体を鍛錬するものなわけです。

 包丁が人を殺める道具にもなれば、料理を作ることで人を生かす道具にもなるために、包丁そのものは価値中立であるにも関わらず、しかし戦後の日本は、武士道および武道が廃れたことで、結果的には「包丁は悪である」といった結論を導き出してきました。

 単純に言って、武器商人でもある悪魔勢力に動かされるアメリカが、世界の指導国であり、米国に続く中国が暴力的であるために、未だに世界は核兵器をはじめとする軍事力に基づいて動いているのです。ですから日本が繁栄の扉を開き、日本がアメリカを超える指導国になれば、世界はより美しくなると言えるでしょう

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