仏教のさとりは、心をOSとすると、不必要な(デーモン含めた)プロセスが全部止まった状態

だから、何かをなそうとすると(あるアプリケーションを走らせると)、さとりの心境にある人はパフォーマンスがでるのではないかと…

単純に雑念がナイって言えば良いですね。

まぁ、元プログラマーのちょっとしたヨタ話です。

Yogas Chitta Vritti Nirodha (ヨーガス・チッタ・ヴリッティ・ニローダ)

世の中変えるつもりがないなら、ヨガとか仏教なんかやめちまえ!

すみません、ちょっとイキったタイトルつけたほうがウケるかなと思って、こんなこと言ってみました(笑) ぷー太郎のざれごとです(笑)

ただ、西洋哲学が最終的にセカイを破壊できる核兵器を産み落とせたなら、東洋哲学がまっとうに進化していたら圧倒的な平和を実現するナニカを産み出せていたはずだと私見ですが思っています。つくづく残念です。

釈迦の言っていることはメチャクチャな極論…だがそれがいい

いちおう、わたしなりに理解したかぎり釈尊が伝えようとした心境(ブッダ)は極限としてありえるし、釈尊の説いた教えには心をやすらかにする知恵や考え方がつまっているといまでも思っています。よくできた信念体系だなと感心しています。

ただ、意識レベルを俗っぽい感じにして釈尊の主張を見てみると、ギョっとすることばかりですね(笑)

家族の否定とか。酒飲むな、女抱くな、乞食しろって…正直、よく信者がついたなと…(そして極東の日本に伝わって即身仏とかいうエクストリーム行為をするひとたちがでてきたりして、大騒ぎですね)

仏教入門

仏教界の大物に死ぬことを異常にビビる衆生を一喝していただきたい

死を前提として輝く生

慈悲は自分のためでもある

ここでいう慈悲はやっぱりわたしの解釈ではある種の強者が弱者へ向ける気遣いとか愛といったモノかなと思っています。

みんな大好きな武将であり政治家であり将軍つまり天下人である徳川家康は、自分の娘の婿一族をエグいやりかたで皆殺しにしたあと、さすがにココロが壊れそうになったんでしょうね、ひとり必死に写経に打ち込んでいた時期があったなんてウワサを聞いたことがあります。

人間である以上、強いからなにやってもいいとか調子こいているとココロが荒むだろうという。

自分のメンタルヘルスの管理という面でも、ちょいちょい慈悲的な行為をしておかないと長期的にはいろいろなダメージが来ますよということではないでしょうか。

釈迦のスゴミ:イカダのたとえ

仏教をカジった方には有名だと思いますが、釈尊は自分がいろいろと人々に伝えた教えを川(煩悩)の激流をわたるイカダ(筏)にたとえました。

もし、修行がうまくいって煩悩の激流を渡り終えたのなら、イカダ(教え)は捨てろと説いたのです。コレってすごくないっすか??

わたしはこのハナシを聞いたときに、「アレ、シャカってホンモノかな…??」とうっかり思ってしまいました(笑)

ノアだけはガチ

いや、いまでもホンモノと思っていますけど(笑)

すくなくとも、釈迦というニンゲンは本気で衆生の苦しみを解決するつもりだったのではないかと、わたしは思っています。

釈迦の失敗の原因のひとつはブッダをいちばん上に置いてしまったこと
人間の価値

釈迦の失敗の原因のひとつはブッダをいちばん上に置いてしまったこと

仏教についてはシロウトのプ~タロウが思ったことを勝手に書いている落書きもしくはポエムなので、わらって見逃していただけると助かります。


ここでは釈迦が唱えた”ブッダ”ということばであらわされる精神状態がアルと仮定します。

で、わたしもいろいろ”四苦八苦”で苦しむのはかなわんから”苦”を滅することができるってんならっていろいろ考え方や感じ方を参考にさせていただいています。

いちおう今の世の中の現状をみてみると、ブッダそのものになっていないとしても苦を滅する心境としてブッダに近づけている人が大勢いるかっていうと、私見ではあまりいないっぽいと感じられます。

その原因のひとつとして、釈尊がブッダになった者は偉いってやってしまったことがあるのではないでしょうか。苦を滅するためにブッダを目指すのではなく、偉くなりたいからブッダを目指すってひとが少なからずでてきてしまっているのが歴史を見てみるとわかります(もっとひどいと、ブッダさえ目指していなくてたんにある教団内部で出世できればいいとか…)。

たんなる、そういう考え方や感じ方をして生きればいろいろな種類の苦しみをいなすことができますよっていう”生活の知恵”(もしくは”哲学”)でええやんっておもいます。

そもそもそんな人間特有の苦痛を感じるのは人間が大脳を発達させすぎたからなわけで、サルやトラ、トリに仏教はひつようないですね。(サルには必要かな…)


もともと”実戦(実践)”を想定してでてきている良いモノが長い歴史のなかで形骸化してしまって、たんなるお遊戯レベルに堕しているっていうのは、日本の武道などにも例を見ることができます。

仏教はこころの合気道

わたしなりにつかんだ仏教のコツ

「ムキにならないこと」

ですね。たとえ善行をしようとしているときでもムキになってしまうとワレを忘れて感情の激流に足をとられることがでてきます。

なにごとも、一歩引いて冷静に考える余裕を確保してコトにあたるのがいいのかなと最近は思っています。

釈迦が断言、「煩悩に屈するぐらいなら我は勇ましく戦って死ぬ、このさい生死は問題ではない」

タイトルのようなことをスッタニパータかダンマパダで読みました。

まぁ、釈尊は自分の中の煩悩の存在に気づき、戦いを挑んで勝利したので仏陀になりました。で、こんどは他人にも煩悩と戦えとけしかけたわけです。

自分は自分の王・女王であるということ
自灯明・法灯明
死を前提として輝く生

神に対峙する(人間である)仏陀

神ってのはやっぱり人間ではないですよね。それよりももっと上等な存在なのではないでしょうか。

対して釈迦を含む仏陀ってのは明確に人間であるといえます。ただ考え方や感じ方や行いが非常に上等になった人間です。

われわれと同類のニンゲンで神と比べても劣らないような、釈迦が伝えた究極の大人といえるブッダが歴史上で何人かいたであろうというのは、自分との連続性という点で、ちょっとホッとする面があるなと私は感じます。(とはいえ上等なニンゲンばかりじゃなくてもいいとはわたし個人は思いますけど…)

釈迦は原始仏典を読む限り、物理世界に対して海を割ったり、水をワインに変えたりという奇跡は行った形跡はなく、ただ、同類の人間を説き伏せることにより、自分と同レベルに引き上げようとしただけです。

究極の大人(おとな)とは
釈迦もダンプカーでど~んとはねれば死ぬ問題

ダンマパダ(法句経)がKindle化されていたようです

いま買ってたしかめましたが、本文から注釈へジャンプして戻ってくるということが手軽にできますね。

ブッダの真理のことば・感興のことば」という書名になっています。

いまわたしが興味があるのは、AIに「この本で記述されているような人格になりなさい」と指示して膨大な原始仏教経典を食わせたら、疑似ブッダAIができあがるのではないかということです。

仏教入門

いまのわたしが釈尊について言えること

釈尊には、ひとはこうあるべき(仏陀を目指すべき)という、非常に強固な確信があったのだろうとは言えます。

で、わたしが(まだ)ブッダでない以上、その確信がどこから来るものなのかがいまだにわかりません。

釈迦がひとに言わなかったより大きなこの世の外側の枠組みを悟っていた可能性
仏教入門
神からの自立

釈迦がひとに言わなかったより大きなこの世の外側の枠組みを悟っていた可能性

ここでは、釈迦の人格がたんにひとから誉めそやされたり聖者としてもてはやされるだけが目的の俗物ではなかったと仮定します。

ノアだけはガチ

そうすると、あれだけ確信に満ちて人々を解脱させようとしたからには、なにか確信があったのだろうと(まぁ、大悟しているわけですから…)。

東洋の大哲学者たちの本領というのは、ひとりでピンときてしまうところなんですね。理屈じゃないわけです。

で、わたしがうっすら疑っているのは、現代人のわれわれでさえ理解していない、この世のさらに外側のなんらかの枠組みもしくはシステムを理解していたのかなと…

仏教と家族

上記エントリでも書きましたが、子供をこっそりもうけた愛弟子にマジ切れってちょっとなにかこの世のさらに外側あたりの仕組みまで理解していないとそういう態度をとらないのではないかと思います。

そのころのインドやネパールあたりでは輪廻転生がごくごく普通のコトとして社会で受け入れられていましたので、釈迦もその線にそったことを言っています。ただ、輪廻転生とは別のなにか仕組みを悟っていた可能性もまだあると私は思っています。(数百年前にタイムスリップした物理学者が、とりあえずこいつらには相対性理論じゃなくニュートン力学を教えとくかみたいな)

修行が進むと生きている実感が増すはず

ネットのどこかで、「仏教は人工的に修行で離人症を起こすモノ」ということをおっしゃっておられた方がいました。

離人症(りじんしょう、: Depersonalization)とは、自分が自分の心や体から離れていったり、また自分が自身の観察者になるような状態を感じること。その被験者は自分が変化し、世界があいまいになり、現実感を喪失し、その意味合いを失ったと感じる。慢性的な離人症は離人感・現実感消失障害 (DPD)とされ、これはDSM-5では解離性障害に分類される(DSM-IVの離人症性障害)[1]

Wikipedia 離人症

わたしはヨガや仏教にハマってから、3日間にわたる固形物の断食をしてみたり、

断食のススメ

熱心にヨガのポーズを毎日してみたり、

出来た!シルシアーサナ/ヘッドスタンドポーズ/三点倒立

で、最終的にいまはおもにヨガや仏教の哲学の部分を参考にしています。

ヨガのバイブル:ヨーガ・スートラ
仏教入門

で、離人症みたくなるかというと、私の個人的な感想ですけど、以前より主体的に生きている感じがハンパないっすね。あと激しい感情の起伏はないです。精神的に疲れるってことは持病の都合でありますけど。

修行の進んだときに出てくる魔境

これはいち仏教&ヨガ好きの妄想です。

修行が進むと、まずいままで自分を縛っていた社会慣習とかいろいろな制約がいったんはずれて、「自分は自由である」という認識がでてくると思います。天上天下唯我独尊てなもんです。

たしかに、心理的なタガが外れると、物理的にはなにをどうしようと行動をすることはできるわけです。

で、ここからが魔境と呼ばれるよろしくない言動が発生してしまうメカニズムだと思うのですが、自由なので何やってもいい → おさえつけていた、笑っちゃうほど俗っぽい動物的な欲がひょっこり顔をだす。はたからみていると、「なんだこいついやに俗っぽいな」となるわけです。

わたしのヨガの先生の目撃談として、ある男性生徒が女性を触りまくるとかそういう場面があったらしいです。

君たちがいて僕がいる

これは仏教の縁起をスパッとあざやかに描写していていい言葉ですね。お寺の掲示物らしいですけど。

じゃあ、無人島で暮らす場合はみたいになっても、食料として獲物となる動植物とか、無人島ならではの環境とのやり取りの中に自己というものが発生するわけで、同じことです。

全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す[2]仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦悟りの内容を表明するものとされる[2][3]因縁生縁生因縁法[2]此縁性[3][注釈 1]ともいう。

Wikipedia 縁起