中学の成績は5段階で最低でも3を目指す、1,2はヤバい

ある科目の成績が5段階で3のひとはフワッとですが、内容をなんとなしにどんなものかかろうじてわかっている感じを受けます。

これが成績が2、1だとほぼなにも分かっていないし、最初から説明する感じになります。

いまは高校受験をする方が多いと思います、そして中学3年生の夏休みあたりになると尻に火がついていることに気が付く方が多いです。そして中3の夏休みから受験までスパートをかけるわけですが、本人にその気があるなら成績がオール3くらいだとかなり実力を上げることが望める状態です。


たぶん、現在の中学校で成績5段階で1がつく生徒さんは、不登校で学校に行っていないとかなんらかの事情がある方かなという感触を持っています。わたしが生活していて触れ合う方々もお子さんが不登校というハナシがよく出ます。また、わたしも不登校の生徒に教えさせていただいたこともあります。ここらへんなんか微力ながらチカラになりたいなという気持ちは持っています。


勉強にできるできないはなく好き嫌いがあるだけ

ドリームキラー

塾で教えていたとき、ある生徒が私から見て明らかにテストで実力以下の点数ばかり取っているんですね。それで、授業1コマを”作戦会議”として取って、丁寧に彼女にわたしが思っていることを説明して、実際に落ち着いて問題をといてもらったりしているうちに、だんだんと自信がでてきて成績を1段階あげられる気がするって本人にも信じてもらえるようになったことがあります。

後日、その生徒のお母さんとちょっと顔をあわせる機会があったとき、お母さんから、

「先生の”作戦会議”のおかげで本人がやる気になってありがとうございました。わたしはあの子を褒めて育てなかったんで…」

って言われて感謝されたことがあります。

日本に限ったことじゃない気もしますが、わたしも

「おまえは絶対、たいしたもんじゃない」

ってメッセージを直接的・間接的に伝えられて育ったきがします。まぁ、実際、たいしたもんじゃないのでいいのですけど(笑) テストの点数や成績が良くてもそれを大っぴらにするとひどい目にあうぞてきなメッセージを刷り込まれましたね(笑)

ただ、自分の子供を育てるにあたってなぜ良いところを褒めてあげないのかはちょっとナゾな感じがします。

私が授業中にやること

このまま塾を抜け出してどっか行ったらどうなるかな…

という考えが、その昔、夏期講習で1コマ1時間半の授業を6コマ連続でやったときに最後の授業中にふと頭に浮かんだんですが、これってはっきり言って”逃げたい”っていう心の叫びですね…(笑)

そういうことがあってから、一日に一コマか二コマにしていただいたんですけど(笑)

集中して授業をして、クオリティを落とさずとなると、やはり、一日に3時間くらいが限界かなという気がしました。

私が授業中にやること

高校受験をひかえた中学生の方たちに

おもに成績が下のほうの方たちへのアドバイスです。いちおう5年以上塾の講師をしていたのでその経験をもとにお伝えします。

数学について例をだしますが、英語でも同じことです。まず、中学1年の内容を理解できていないのに、いきなり中3の問題を解こうとして分からなくて途方に暮れている人をけっこう見たことがあります。

ここでそういう方たちが気が付いていないのは、基本的に中3の内容は中1、中2の内容を土台としてなりたっているということです。たとえば、正負の数の理解があやふやなのに、2次関数の座標を求める問題を解こうとしたって負の座標値がでてきたら計算できないですよね。そういうことです。

3階建てのビルを建てようとしていて、一階(中1の内容)がしっかりしていないのに、その上に2階(中2の内容)を乗せようとしたって、グラグラして不安定になるのはまぁ当然のことです。

あと数学用語の定義をしっかり身に着けるだけで5点以上入試で余計に点をとれることがあります。”自然数”、”素数”、”以上”、”以下”、”未満”とか…

個別指導塾講師活動6年目へ突入

周囲の理解もあって、講師活動6年目に突入することができました。

お世話になっている各方面には感謝しております。

いまでも、若い人たちの言動は私にとって驚きの連続です。

 

Everybody falls the first time (誰でも最初は失敗する)

[mathjax]
塾で生徒さんに教えさせていただいていると、大部分の人が最初は間違う所というのがわかってきます。

例えば初めての数式の展開で、

$$-(x – 3)^2$$

を符号を間違わずに展開できる人はかなり少ないです。

私は、

$$-(x ^2 – 6x + 9)$$

という途中式をあえて書くように指導することが多いです。

こういうツボみたいな所の知識が、だんだん私の中に蓄えられて行っています。

操ると導くの差

認知機能の高い、つまり、端的に言って頭のいいある友人が、いかに自分より認知機能の劣る女性の心を操ることができるかを力説していたことがありました。

まぁ、その友人はその女性のためを思って、”説得”したわけですので、私利私欲のためではありません。そして狙った効果を得られたようで、女性の生活が安定しました。

私は、”人の心を操ってやろう”という料簡自体が卑しいと感じています。また、長い目で見てそういう目論見が自分の思った通りの結果をだすかどうかを疑っています。

また、よかれと思って”導こう”としたとしても同様に、”良い結果”を得られるかどうかを疑っています。

私にできるのは、自分はこうしてこうなったという”報告”をすることだけです。

つまり、”善意で導く”も”悪意で操る”も長期的にみると結果にさほど差がでないと思っています。

ただ、盲目の人に対してはこちらが目が見えるなら、サポートをしたくなるのが人情ですね。

Do not judge, or you too will be judged.  For in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you.

Why do you look at the speck of sawdust in your brother’s eye and pay no attention to the plank in your own eye? How can you say to your brother, ‘Let me take the speck out of your eye,’ when all the time there is a plank in your own eye?  You hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother’s eye.

個別指導塾講師活動5年目に入りました

最初はおっかなびっくりで教えさせていただいていた塾の講師活動ですが、5年目に入ってなんとなく様子が分かりかけてきました。

20代のころは人にものを教えるなんて、柄じゃないし、第一、教えるような何かが自分にあるとは思ってもみませんでした。

ただ人にものを教えさせていただくのはやはり、奥が深いというか、追求し始めるときりがないというか。

色々な若い人と接して、多少なりともその力になれるというのは、私にとっては望外なよろこびです。

できることなら、ライフワークにできればいいなと感じております。

勉強にできるできないはなく好き嫌いがあるだけ

走ることに例えると、もちろん誰でもオリンピックの短距離選手になれるわけではありません。でも、走ることが好きで練習を重ねれば、その人個人レベルでは走るのが速くならざるを得ないんですね。

何事にも向き不向きはあります。でも、少なくとも小学校から高校レベルまでの勉強一般は、誰でも脳の機能的には理解できる範囲です。でなければ何らかの障害としてそもそも普通の学校に入学できていないはずなんですね。

ある事柄を好きになれば、当然、練習をするでしょうし、上手くなろうとするはずです、そうすると何もしない状態より結果として上手くならないではいられないのですね。

ここら辺をよく理解できていないお子さんが多くて、ひどい例では親からお前はバカだと言われていてそれを信じそうになっていたりします。

面白いと思ってやる事がどれだけすごいことを引き起こすかは、テレビゲームに熱中している子供たちを見るとわかります。
好きなゲームがあると、そのゲームについて異常に詳しくまた上手になっているんですね。

学問の王道はそれを好きになることだと思います。

知識は生き物で世話をしないと枯れてしまう

まず、私の事例からお話しすると、数十年レベルで理科知識の手入れを怠ったために、

「湿度100%って水の中かな?」

というくらい忘れてしまいました。一度は理解したことがあるので理科の教科書を読めばすぐに思い出すのですが、ほったらかしで手入れをしないと、このレベルのことが起こるんですね。

なにしろ中学高校あたりの勉強内容を「やらされている仕事」という受け止め方をしていたのが失敗だったなと思います。特に中学は義務教育でせっかく国が教科書やらなんやら無料でサポートしてくれているのにもったいないことをしたと思っています。

私の友人のお父さんはある大きな会社の社長をやっておられた方ですが、大学は早稲田大学を卒業しておられるわけです。そうすると当然、入試を受けた時点で英語は仮定法などを含めて、かなりの読解力が一時的には身についていたはずですが、仕事を引退された後、最近興味を持って中学英語の教科書を読んでみたら、he, his, him, his レベルからもうすっかり忘れていたという事です。

また総理大臣が国会で「いいですか!私は立法府の長ですよ!」なんてことを言ってしまいますから、行政府の長ですら油断していると自分の職業分野でさえ知識がしおれてしまっているということが起こります。

また、学問の知識はつねに進歩しているので最新情報という栄養を与えてあげる必要もあります。聖徳太子が厩戸王 (うまやどのおう)としても教科書に記載されているなどですね。

数学は特異な学問で2000年以上前に証明された定理がくつがえるなんてことは歴史上いまだかつて起こったことがないですが、それでも、数学としてとらえられる領域がひろがったり、素因数分解が暗号技術に使われて非常にホットな領域になったり、日々進歩変化しているはずです。

そういうわけで、私は社会科などは中学レベルからもういちど教科書を買って勉強しようとしています。国語、数学、理科、社会、英語などの中学生レベルを本当に自分の身に引きつけた有機的知識としていつでも利用可能なツールとして身につけたならば、いまの一般社会ではかなりの”インテリ”として遇されると本気で思っています。




無限の可能性

よく、

「子供には無限の可能性がある」

なんてことを言う人がいます。おおむね私も賛成ですし、子供だけじゃなく私もこの歳になってもある種の万能感を持ち続けています。

でも、それ故に注意しなければいけないことは、「無限の可能性」が必ずしも良い方向への変化とは限らないことです。

善良だった子供が無限に悪くなっていくことも私はありえると思っています。それは不運とか周りの人たちとかいろいろな影響が重なって、どんなに素直でよい子だったとしても悪へと誘われる可能性がそれこそ無限にあると思っています。




高校受験結果:1人合格1人不合格

神奈川県の公立高校の合否がでました。

私が教えさせていただいている生徒さんは、1人合格し1人は不合格でした。

当然、意識の中心にくるのは不合格だった子のことです。

私が教えていた数学は目標点をとれたのですがほかの科目で失敗したと言っていたのでそれが足を引っ張ったのでしょう。

まぁ、俺は俺の仕事を達成したから関係ねぇや……とはならないのですね。

何かもっとできたのではないかと知らせを聞いたときからずっと頭にあります。たとえば、数学であとプラス10点できたら、ほかの科目の失点をカバーできたかもとか。

真面目にコツコツ勉強をするタイプの子なだけに、どうにかして合格の手助けをしたかったという気持ちがあります。

色々語弊がありますが、あるベテラン外科医の言葉として、

「外科医は患者を殺して本当の外科医になっていく」

ということを聞いたことがあります。




油断していると

私が塾で教えていて遭遇した予想の斜め上というか想定外だった事例をひとつ紹介します。

数年前に教えたある生徒を念頭に置いています。

中学1年生、2年生で高校受験を意識していない状態の子供たちがどんなメンタルかというと、まずなぜ勉強しなければいけないかもよくわからないし、ましてやなんで塾に行けと親に言われたのかもよく理解できていません。まぁ、単純に成績が悪いからという認識はあるでしょう。親としては5段階成績で2が多いしこのままじゃ公立高校には行けないのではないかという危機感から塾に来させるということでしょう。

その際、なぜ勉強を今するべきなのかなどを子供とよく話し合っているといいのですが、もしかしたら親御さんもなぜ勉強するべきなのか自分の言葉で明確には言語化できないのかもしれません。

で、私がさすがに、う~ん、と唸ってしまったその生徒の挙動なんですが…。

まず、数学の授業で、塾で使う計算ドリルと問題集を指定して、毎回の授業で勉強した内容の定着を図るため宿題を出します。

そして、次の授業の開始時に前回の内容が定着したか確認テストをするわけです。で、その生徒は確認テストの結果がどうも思わしくない。でも宿題はパーフェクトに正解しているわけです。

2~3回この繰り返しがあったあと、私は驚愕の事実に気が付きます。なんと、その生徒は塾の宿題は問題集の解答を内容を一切理解せず、ただ書き写していただけだったのです。

これは学習効果という点では単純にまったく意味をなさない行動です。そのレベルで勉強をやっつけ仕事と認識しているとは私は思わなかったので、正直かなり驚きました。

結果として、ドリルと問題集の解答集は私が管理することにしました。

そもそもなぜ勉強するのかという事を子供がよく納得できていないとこのレベルのふるまいが出てしまいますね。

ただ、多くの子供たちに接していて気が付いたのですが、どのレベルの子供達でも成績はあがったらいいなと心の底ではすごく思っていることです。ただそれを人にはなるべく悟られたくないのですね。ここら辺がやる気をどう出させるかの講師の技のみせどころですが、残念ながらうまくいかないこともあります。ここは私の講師としての技が未熟なせいでしょう。

 




生徒のテストの点が悪いのはぜんぶ講師のせい

というくらいの心構えでやらないと金をもらっている以上だめでしょと思います。

「あの子はやる気がないから…」

だから、やる気を出させてくださいってことで、金がお前に払われてんだろと思います。相手にやる気がないんなら、やる気を出させるために何をするかを考えるべきであって投げてんじゃねぇよと思います。自分の力量で無理っぽかったらそれなりの指示系統にそう報告すりゃいいだろと思います。

でも、中学3年の夏休み過ぎあたりから生徒のやる気というか危機感が芽生えるのをみると、

「じゃ、中学1年からちゃんとやっときゃよかったじゃねぇか」

という思いも浮かびます。

そういう私は中学あたりでは勉強は仕事と思ってやっていました。勉強に適性もあったんでしょうし、好きだった面もありますが、やらされてる感はMAXに感じていましたね。”仕事”なんで。で、”仕事→やらされる事”という呪縛にいまだにとらわれている人たちはすごく面白くないだろうなと感じています。

 




中学英語をやり直しませんか?

人気バイリンガール英会話ユーチューバーであるChikaさんが結婚したそうですが、そのとき旦那さんは英語をすっかり忘れていて、

「Are you marry me?」

と間違った英語で言ったそうです。もちろんChikaさんは意味を正しく理解して、旦那さんが頑張って英語で言ってくれたことに感激したそうです。(決まり文句としての教科書的正解は”Will you marry me?”)

まぁ、これはこれでいい話なんですが、たとえば中学1年生の英語をしっかり勉強していて、その後、その知識をきちんとメンテナンスしていれば、この手の間違いはよっぽどテンパッているとかじゃないかぎり原理的に起こりえません。

なぜなら、中学一年でまず徹底的に勉強するのは、Be動詞と一般動詞の区別だからです。

では、なぜ区別するのか、それは疑問文や否定文の作り方がBe動詞と一般動詞で違うからです。逆に言えば、一般動詞ならすべて同じパターンにしたがって、肯定文から疑問文や否定文を機械的に作り出せます。Be動詞についても同様のことが当然いえます。理由もなく区別してあつかうはずがないのです。

中学英語というと馬鹿にする人とか、いまさら中学英語を勉強するのは恥ずかしいとか言う人がいます。

まず、中学3年間で習う英語でどれくらいの表現力があるのか一例をあげると、教科書にマザーテレサの一生について数ページに渡ってかなり細かく描写されています。

つまり中学英語で人の一生について語れるほどの記述力があるわけです。

英語(外国語)の勉強法はざっくり2つに分かれて、ひとつは対象言語が使われている言語空間にどっぷりつかって実践的に身に着ける方法です。もうひとつは、文法をしっかり押さえてからそれを頼りに進む道です。

状況によってこの二つをまぜたりするのが普通ですが、幸か不幸か日本で暮らしている限り英語をなにがなんでも使わざるを得ない環境を作り出すのは難しいことが多いです。

なのでしっかり中学レベルの文法をマスターしたのち、インターネット英会話とか最近安いですので英語話者と会話の練習をするなど、工夫次第で日本にいながら英語をかなりのレベルにまで引き上げることは可能です。

やる気スイッチスクールIE野比校で私も教えていますので、お問い合わせお待ちしております。講師には海外でずっと(10年近く)語学教育していた者もおります。

あと中学の教科書は、地域ごとに指定された特定の書店でしか手に入りませんが、近くに中学校があるところなら必ずそういう書店もあるはずです。

 




私が授業中にやること

まず、授業が始まって生徒の顔つきや様子、私への態度などでそのときの疲れ具合とか精神状態をみて今日はどこまで生徒のパフォーマンスがでるか察します。

で、生徒や親御さんが望んでいるのは成績が上がることつまりテストで点をとることなので、問題演習を中心に授業を進めます。

最初に生徒のやりたい単元や問題を尋ねることが多いです。「やりたい」という欲望はとても大切なのでそれを大切にして生徒の希望をメインの単元にします。

で、学校でもう勉強したのかとか多少のやりとりをしたり、生徒の大まかな適性を考慮して、いまはここらへんが解けるのかなぁという難易度の問題を数題解いてもらいます。

次に、その問題を解いて見せるんですが、私がその問題を解くときに頭で起こっていることを実況中継します。生徒の回答が間違っていたら解説したりしながら、だんだんとその日の授業で生徒にマスターしてもらいたい目標を定めて、生徒につげます。

大事にしているのは、欲張りすぎず、でも可能な限り生徒の頭に数学的な理屈から構築された多面的に理解された概念を作り出すことです。

授業中の私は極度の集中状態にあって、どうしたら生徒の学力があがるかだけをすごいスピードで考え続けています。それにはすこし冗談をいったほうがいいのかとか、励ますべきなのかとか、どの問題集のどの問題を解いてもらえばいいのかとか、また、私が自分で即興でピンポイントでマスターしてほしい課題が入った問題を考えることもあります。

で、授業中には生徒が親御さんに見せる授業の報告書も書きます。こちらも「商品」ですのでできるだけ丁寧に何を勉強したかを、ときには文字に色をつけたりしながらびっしりと書きます。親御さんへの要望を書いたりすることもあります。

そういうわけで、1コマ生徒2人で1時間半の授業を終えると、心地よいのですがものすごい精神的に消耗します。

まぁ、これは一例で、塾の授業にはちゃんとくるけど、授業はまったくやる気がない生徒とかいろいろなタイプの生徒がいますので内容は数パターンあります。

作図をあなどる人

中学生は1年で、作図 を習います。

作図とは簡単に言うと、定規とコンパスだけで図形の描き方などを考える数学の学問分野です。

で、普通は定規とコンパスを使いますが、別にこれら両者を使わない作図の問題だっていくらだって作れます。したがって高校入試で定規とコンパスを持ってくるように指示がでていなくたって作図の問題は出る可能性があるのです。

まず、私がいままで何人かの受験生と接して不思議に思ったのは、ここ何年も作図の問題はでていないから勉強しなくてよいという、ものすごい思い切ったことをやる人がかなり上位の高校を目指す人(つまり高得点を狙う人)にも少なからずいることです。

「何年も出ていない」 → 「今回も出ない」

ものすごい素朴な帰納主義者なわけです。

「中学で習ったことは全部出る可能性がある」

なぜこの基本的な認識をないがしろにするのか理解に苦しみます。

というわけで、私は今度の受験対策でもしっかり、定規とコンパスをつかわない作図の問題を教えようと思っています。




教える側には自明に思えることをどう教えるか

文字式の展開で、いわゆるウマイやり方は、

(a + b – c)(a – b + c)         ①

= {a + (b – c)}{a – (b – c)}   ② ※2乗の差の乗法公式を使います。

= a^2 – (b – c)^2

= a^2 – (b^2 – 2bc + c^2)

= a^2 – b^2 – c^2 + 2bc   ③

教える側は、脳のトレーニングがすでにできているので、①を見た段階で、②がすぐに頭に浮かぶわけです(本当は、暗算で③まで飛びます)。

しかし、生まれてからそんな式の見方をしたことがない生徒にとっては、なんで、①を見てすぐ②を思いつくのかが、謎なわけです。

「そのうち慣れるよ」で済ませることもできますが、なんとか、そういう発想をする思考の流れを説明しようといろいろ苦心します。

今のところ、
「部分(項)が同じような感じで、符号が違うときは、(項を並べ替えたり、マイナスをくくり出したり)マイナスをどうにかしようとしてみて」
と言ってみたりしています。

あと、必ず言っているのは、乗法公式とかウマイやりかたじゃなくても、どんな展開でも必ず、分配法則でできるということです。

(a + b – c)(a – b + c)         ①
= (a^2 – ab + ca) + (ab – b^2 + bc) + ( – ca + bc – c^2)
= a^2 – b^2 – c^2 + 2bc    ③

生徒の特質にあわせて、あえて、ウマイやりかたを教えずに、分配法則だけで勝負させることもあります。(この例だと、行数が少なくて、分配法則を使ったほうが楽に見えますが、乗法公式を使えば計算しないで済む a * b とか、実際は、a, b, cとか1つの文字じゃなく係数もついてそれが分数だったりして、ミスの可能性は増えます。 )

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自分の娘にバカと言うな

今は亡き、偉大なダンサー・シンガーであったある人は、子供の頃父親から「お前の鼻の形はおかしい」とさんざん罵られたそうです。その後、スーパースターになった後も、彼は自分の鼻を何度も何度も整形手術しつづけました。

小中学生にとって親は巨大な存在です。
小中学生の心に「自分はバカなんだ」という思い込みが入ったらどんな悪影響があるのかを深刻に受け止めてもらいたいです。それがどれだけの虐待なのかも考えてもらいたいです。

まず、その子が仮に知能が確かに少し低いと仮定しましょう。それをバカと呼ぶとします。
一応断っておくと、私はいわゆる「バカ」という状態はいわゆる知能(IQ)とは一切関係ないと思っています。

まず、責任論から言うと、自分の娘がバカなのは、DNAの半分を出している手前の責任だろうということを指摘したいです。もし、いや自分はバカじゃなく妻がバカなのだというのなら、そういうバカな嫁さんをもらったのはお前だろうと言いたいです。

バカにバカと罵って事態が好転するのなら私はあらんかぎりの罵倒語のコレクションを使って生徒を罵ります。罵ったってうまくいかないばかりか、事態を悪くするとなぜわからないのか。
自分のうっぷんを晴らしているだけだとなぜ気が付かないのか。

私の実感では、中学あたりの勉強は本人が一生懸命努力勉強すれば、オール3以上は絶対にとれるはずです。でなければそれなりの特別な学校に通っているはずです。

知能(IQ)はとても使い出がある特質ですが、人が社会で生きていくうえで役に立つモノの1つにすぎません。

・対人能力
・人の好さ
・バランス感覚
・要領のよさ
・人徳
・チームプレイヤーかソロプレイヤーか
・出世欲
・金銭欲
・絵のうまさ
・体の丈夫さ
・すべてにおいて普通というアベレージプレイヤー
・容姿の美しさ
・…

この世を生きていくうえで役に立つモノは無限にあります。

では、なぜ、中学で勉強するのかというのはまたあとで書きます。