The Long and Winding Road to Satori

まず、悟りとは何かというと、涅槃寂静ということばで表現されているように、静かな心です。で、なぜ悟りを求めるかというと功利主義的には冷静な判断を下すためです。

激しい感情というのはポジティブであれネガティブであれ行動のエネルギーになったりして使いようがあるものの制御が非常に難しいです。

ヒリつくような快感というのも一度は経験してみるのも悪くないですが、強いドラッグと同じで追い求めすぎるとたぶん破滅がまっています。(そこらへんトランプ大統領がどういう心境で動いているのかとても興味深く思っています)

で、どのように他人を悟りへ近づけるかというと、たぶんAIとか色々なテクノロジーを使って脳の状態マップみたいなのが明示的に解析できて、こういう刺激を与えたらどういうマップの変化が起きるかみたいなシミュレーションをしたうえでないと、失敗したときの本人や周囲へのダメージがヤバすぎてやらないほうがいいというのが私の現在の感想です。

で、そういう悟りの心境への道は、各個人ごとにパーソナルなものであり、ヨガ体操の教室でいま行われているような、単純な授業形式のメソッドとして確立するのは非常に難しいと思っています。

スッタニパータとかダンマパダなんかの初期仏典を乱読したかぎり、釈迦は悟りを得た聖人はこういう状況ではこうふるまうとか、こういう心境でことにあたる、みたいな結果しか言っていないんですね。

で、ヘタに色欲をコントロールしようとして、女を絶ったりしていると、もともとゲイじゃなかった人がゲイになったり、小児性愛の傾向がなかったひとがペドファイルになるという倒錯がでてきたりしているのが、仏教界の歴史から見て取れます。

初期仏典を読む限り、釈迦のいっていることをやろうとすると、脳内の内部表現の書き換えをやるわけですから、間違うと、社会に壊滅的なダメージを及ぼす、とんでもない大悪人が出てくる可能性があります。

そういう意味で、私は自分の自己流のやり方を他人で試す気になれません。

ノアだけはガチ

いちじ、プロレスにはブックという筋書きがあってということがおおやけになりはじめたころ、ノアというプロレス団体の熱心なファンが某巨大掲示板で、「ノアだけはガチ」という主張をしてらっしゃったと聞いたことがあります。

その感じで、いち釈迦ファンとして、私は「釈迦はガチ」という主張をしたいです。少なくとも第三者が観測しうる限りにおいては、人々の心にある「聖者」の概念を体現しているように感じられたのではないでしょうか。

ある種、認めざるをえない言動をしたので千年、二千年と残ったのではないでしょうか。

ただ残念なのは、「聖者」はまがいものも数多くいるわけで、私の友人なんかも「全員がまがいもの」と思っているところですね。

自灯明・法灯明

釈迦は最後の旅路の途中で入滅するにさいし、そばに仕えたアーナンダに自灯明・法灯明の教えを残しました。

法(ダルマ)とは私なりの理解では、この世を統べる法則や道理といったところでしょう。こうすればこうなるみたいなのです。これには当然、物のことわりである物理法則、心の動きについての心理学的法則、人との関係性の社会学的法則なんかも含まれるはずです。

で、自灯明を言ったところがさすが釈尊といわざるを得ないのですが、自己(煩悩をコントロールした末にでてくる智慧による自己)をよりどころにせよといっているわけです。自ら考え・感じることを放棄して盲目的に何かに従うことを暗にいましめています。

釈尊は「俺の言ったことを守らないと、ものっすごい天罰でお前を滅ぼす」みたいな脅迫的言辞はいっさい弄せず、ただ、「そういう心持ちで動けば、そういう結果になってあんたは苦しむだろうな」みたいに諭すだけですね。

まぁ、私も釈尊の教えを自分なりに参考にさせてもらって、自分で若いころから気が付いていた「俺は自分の我の強さで死ぬことになる」という思いからいまのところ逃れて生き延びてます。