信仰それじたいに意味がある

私は残念ながら信仰はもちあわせていません。いろいろ考えすぎる性格が災いしているとおもいます。バガバットギーターで述べられているヨガにおける修行方法の分類で敬愛のバクティ・ヨーガや無私のカルマ・ヨガなどあるなかで、理屈を突き詰めるニャーナ・ヨーガを自分では気が付かずにやっている状態だと自己分析します。

聖者と言われている人なんかが、信仰の対象に敬愛をささげるバクティ・ヨーガは非常に価値があるものだと言っていたのを文献とかで読んでいたんですが、正直なぜバクティ・ヨーガがそれほど重要なのかが理解できませんでした。

結論から言うと、バクティ・ヨーガが重要なのは自分の(論理的思考とかでなく)感情エネルギーを信仰対象に注ぐことで精神が安定するからだなといま気が付きました。敬愛をささげる対象は神仏とか歴史上の偉人とか社会的にほぼ問題のない対象ならなんでも良いのですが、信仰心それ自体が心の平和を促進する作用があります。

愛、慈悲、空

以前、ヨガの理論面での先生に個人的に授業の感想のメールを送って、返ってきた返事のメールに「けっきょく、愛ですよね愛」みたいな文言があって、アレ?と私は思いました。

仏教では、肉欲につながる”愛”と強者から弱者への慈悲としての”愛”を区別して扱います。で、愛欲はほどほどにどんなものか楽しめばいいと思いますが、ハメをはずすとクソみたいな事態になりますね。で、もう一方の慈悲はたしかに人間社会では価値あるものだと思いますが、それも残念ながら地球上で繁栄した人類という生き物に特有の価値観だと思います。とはいえ、私も人間ですので慈悲の心を持ちたいものだと思っています。

そういう上辺をとりはらった、この世の核となるナニカもしくはそのナニカの状態を表す概念としてはやはり空(クウ)なのではないかと思います。といいつつ、空とはなんなのかはわかりませんが(笑)

死はかならずしも悪いものとはいえない

と言うと、エッとなりますよね。でも、私は死んだらどうなるかはいまは分からないと思っています。科学的な思考をたどっても可能性として死後になにかあってもおかしくないといまは思っています。(まぁ、その裏付けみたいなのは量子力学の二重スリット実験における意識の問題です。これを書くにあたり、また飲茶さんのサイトを読み直すつもりでしたが、見切り発車してしまいました)

その”何か”とは何なのか残念ながらわかりません。

薬師丸ひろ子さんの「セーラー服と機関銃」の歌詞に”さよならは、別れのことばじゃなくて、ふたたび会うまでの遠い約束”というものがあって、それがイヤに気になった時期が私はありました。まぁ、17歳の多感な時期に父親に死なれると死とか生きる意味みたいなのをどうしても考えざるを得ないんですね。どうどう巡りして終わりとわかっていても。

ある日本のお坊さんが娘が自殺してしまった両親にした説法で、「死ぬほど苦しみ悩んだ娘さんという主体は、もうありません」というようなものがあったと聞いたことがあります。キリスト教の信者である若いゲーム友達が「仏教はそこまでしか言えないんですよね」と言っていましたが、あなたの娘さんの苦しみは終わったと伝えることはかなり意味があることではないでしょうか。

子供のころ、死ぬと”この自分”というものがなくなると想像して眠れなくなるほどの恐怖を感じたことがあります。私のいまの感じだと死は”いつやってくるかわからないが、必ずくるもの”という感じです(ある種の救済措置のようにも感じています)。

塾で教えていて生徒になんかのはずみで、「わからないよ、センセイだってこの帰りに交通事故で死ぬかもしれないし」というようなことを言ったらかなり驚いた顔をしていたので、若者にとって死というものはまだ意識するようなことではないのかもしれません。

唯物論的な”死=終わり”ではなく、”死のあとに何かがある”ということが科学的な意味で証明されれば刹那的になりがちな世の中も、すこしはちがってくるのかなとも思います。