善悪はファッション:だが善をもとめずにはいられない

いつごろからか、善悪の判断って時代によってもかなりちがってくるし、文化や状況によっても色々ちがいがあるなと感じていました。

結論から言うと、宇宙全部に共通する善悪なんてないのだろうな… 今ではそう思っています。生物としての善があるとするなら個体もしくは種族の繁栄につながるようなことを”善”ととらえざるを得ないでしょうと思っています。

たとえば、(奴隷制度が普通だった時代に)「万学の祖」であるアリストテレスは奴隷制度擁護論を書いています。また、ニーチェの「善悪の彼岸」なんてのもあります。


Wikipedia “善悪の彼岸“より

過去の哲学者たちが道徳性について考察するときに、批判的感覚が欠けていた疑いがあることと、とりわけキリスト教の諸前提を盲目的に受け入れていたことを、ニーチェはこの『善悪の彼岸』で非難している。


私:”この感じはファッション(服装)に似ているな…”

(ファッションも時代や文化によって左右されます。)

たとえば、私がいま日本において公道でいきなり知らない人に殴り掛かれば警察のお世話になりますし、これはどう考えても悪でしょう。

同様に、究極のファッションとして全裸で公道を歩けばやっぱり警察のお世話になります。全裸はとてもイケてるファッションとは言えないでしょう。


しかし、こんな単純な暴力の善悪でさえ色々な状況しだいであって、たとえば戦場では敵兵を殴るぐらいじゃすまなくて、殺しに行かなければこちらがやられてしまいます。

あるインターネット動画で、中東に派遣された米兵とおもわれる人が、かわいい子犬を笑いながら崖下へ投げ捨てていました。これはインターネットで炎上して当人もかなり責められたのではないでしょうか。

ただ、戦場で子犬の命を大切に思うような気持ちをキープしたまま、自分と同類の人間を殺せるでしょうか。自分と同類の人の命も軽く思えるようないわゆる”戦場ハイ”とでも言える心理状態でなければ、おそらく人格が保てないのではなかろうかと思います。

戦場における善悪(ファッション)はおのずと日常と違わざるを得ない。


ある状況・文化・時代でいわゆる悪とされていることをやればいろいろなペナルティがあるでしょう。

同様に、その環境などで受け入れられないファッションをするのはやはりいろいろな問題が起きたり不愉快な思いをすることになるのではないでしょうか。

先進国なんかでごく普通に育てば、だいたいの人の心には”良心”や”罪悪感”というものがインストールされるはずです(ファッション・センスですね)。それ以外のたとえば戦乱に苦しむ国でも我々には受け入れがたいかもしれない”良心”や”罪悪感”が育つはずです。(例えば子供はできるだけたくさんの金品を盗んで親に渡すのが親孝行(善)と考えるとか)

このいろいろな種類・形があるその人なりの”良心”に反することをしすぎると人格が荒れて結果として自分が内的、外的に種々のダメージをうけるわけです。

ここでいう良心ももちろんファッション・センスの良さ・好みでしかありえず、部外者から見ると奇妙に感じられるものかもしれません。ただ本人にとってはやはり大事です。むりにヘンテコリンなファッションをすれば自分の心にストレスがかかるのと一緒で、自分の人格に組み込まれた良心に気を使わざるを得ない。


いまから千年後にタイムスリップして、何気なしにゴキブリをスリッパで叩き潰したとします。千年後の未来では目に見える生命を極力尊重するという文化だったとしたら、それを目撃した未来人たちはあまりのショッキングなできごとに気絶するかもしれません。場合によっては警察に拘束されたり。


じゃ、良心や罪悪感が人格にインストールされていない人(ファッション・センスの好悪がない人)っているのかといえば、最近流行りのサイコパスの人たちがそうなのかなと思います。

善(良いファッション)を求めるのは自分の心と身体の平和のためだろうなということです。

雑然と頭に浮かんだことを書いたので、また整理・加筆します。

全知全能の神はいるのか

まぁ、全知全能の神がいるとします。すると矛盾がでてくるんですね。

全能の逆説というらしいです。

全知全能の神が、

「どんな矛も防ぐ盾を出すよ、ほぃっ」

スポポ~ン 無敵の盾登場

「どんな盾も貫く矛をだすよ、ほぃっ」

スポポ~ン 無敵の矛登場

市民1「じゃぁ、神様、その矛でその盾を突いてみたらどうなりますか?」

これは矛盾ですが、私はいままで50年近く生きてきて矛盾を抱えていない人って見たことないんですが、それは置いといて、たとえば、無敵の矛で無敵の盾を突いたとします。ちょっと思いつくのは、

”矛盾なので世界そのものが消える”

こんなんどうでしょう、結果が出ないというのが正解のひとつではないでしょうか?

神様「あれ、面白くないねぇ~、じゃ、無敵の盾と無敵の矛を対決させても、世界が消えないようになぁ~れ!!ほぃっっと」

そしてまた、無敵の矛と無敵の盾を対決させます…

市民A「いくぞ~、そりゃ!」

”こんどは、世界は消えないが、時間が永遠に止まる”

などなど…

複雑系のこととかをちょっと読んだり、量子力学の二重スリット実験のことを読んだりして、いかに矛盾を内包した系を説明するかって大切なんだろうなぁと思っています。

 




この世のすべては虚妄である

たとえば、私のお姉ちゃんの例を出しますと、旅先で魚料理をおいしく食べたそうです。で、食後に旅館の人と話していて、さっき食べた魚が実はフナだったと分かっとたんに、気分が悪くなってしまったそうです(姉はフナを食べるのは気持ち悪く感じられて嫌いだそうです)。

「あぁ、さっきの魚はフナですよ」

この言葉が、姉の脳で解釈された結果、身体に異常を生じさせるほどの威力を発揮したのです。

他の例では、最近は映像の分野としてスプラッターものがあります。

で、思考実験ですが、「スプラッター風味のスリラー映像です」ということわりを最初にした後で少しグロい殺人の場面がある映像を被験者に視聴していただきます。

で、その映像を”楽しんだ”人たちが一定数いるとします。

その人たちに、「申し訳ないですけど、あれ、本当にあった殺人事件が偶然録画されたものなんです」といったら、やっぱりその人たちは激しい拒絶反応を起こすのではないでしょうか。

「ホントウとウソの区別は本当にそんなに明確なものですか?」

私のお気に入りのお釈迦様は、「この世のすべては虚妄である」と断言しています。

とはいうものの、私が死んだ後…

「じゃ~ん、今のは最新体験型のゲームだったんですけど、いかがでした?」

とあの世で言われたら、さすがの私もその人を殴ってしまうかもしれません(笑)

「数式ということばじゃないと正しく伝わらない」問題

趣味で、初期仏典や聖書、コーラン、ヨガのギータなんかを乱読しているんですが、やはり自然言語によっていかに良いことを伝えようとしても、千年もすると(故意かどうかは微妙ですが)すっかり内容と逆のことを読み手が勝手にやりだすという事例を多く見聞きします。

たとえば、釈迦は「異性関係は人間の生殖にかかわる本質的な欲望なので、むやみに淫らにならないように、(男性の弟子が多かったので)女性には気を付けろ」というようなことを折にふれて語っていたり、「肉を食うからなまぐさと言うのではない、友人のカミさんと陰で一発やってそ知らぬふりをしているのを生臭というのである」なんて言ったりしています。

これが数千年たって、仏教がインドから中国、さらに日本へとくると何が起こったかと言うと…

「異性関係は気を付ける」→「女はやばいらしい」→「女とヤるのはよそう」→「男とヤればいい」

なんでだよ(笑)wwwwwwwwwww

たとえば、日本の寺関係の隠語で「幼い小僧」への性的表現がかなりあるとか、仏教僧を紹介する書物で、「この僧は女性との性関係をもたなかった、さらに男性との性関係ももたなかった」ということが”珍しい人”として紹介されていたり。

またキリスト教でもアメリカでカソリックの神父による幼児への性的虐待が社会問題になっていてバチカンはたしか総額数千億レベルの訴訟を抱えていると聞きました。

残念ながら、釈迦、イエス・キリスト、ムハンマドなど名だたるセイント(聖人)たちは、失敗したと言わざるを得ません。

釈迦だって、大悟をしたあと一度はそのまま死ぬ気だったのですが、まぁ、神話的表現にあえてしてますが、梵天に請われて世に「我は仏陀である」と大見得をきって宣言して、「人々の苦を滅しよう」という意図を持ったはずです。

だいたい、釈迦などがいう煩悩のコントロールは、よく釈迦本人も「激流を泳いで渡るほど難しい」と自分で言っていますし、「煩悩の激流を渡りきるものは数少ない」と言っています。

しかし、いったん社会的リーダーになろうと決意したのなら、所定の訓練をつめば、ほぼ九割以上の人が煩悩のコントロールができるようになるような訓練メソッドを残して、その結果、人類が戦争をしなくなったというような”結果”が欲しかったところです。

「激流渡り水泳スクール」っていって生徒を集めていて、激流を渡れるようになるのはほんの数人っていうのは許されないと思います。

みなさんにおなじみの日本の仏教者で一休さんという方がおられました。

その一休さんは、次のような言葉を残しておられます。

「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」

まさに、私の感想もこの句につきます。

なぜなら、インドでは今、ヒンドゥーが支配的な宗教ですが(不可触民に仏教を広めている日本人の方がおられますが)、じゃ、仏教徒はどうなったのかというと、釈迦の没後数百年に、ヒンドゥー教徒による仏教徒の虐殺が起こっているんですね。また、最近ではミャンマーの仏教徒からのロヒンギャへのひどい虐待の問題なんかもあります。

「お釈迦様、あんた、問題解決するどころか、ぶっちゃけ問題を増やしたんじゃないんか?」


これらセイントの失敗のひとつは、聖典が情緒的な自然言語によって記されたことが原因の一つだと思います。

そこへいくと、数学のたとえばユークリッド幾何学なんて数千年たってますが、根底から覆されることはありませんでした。リーマン幾何学などの前提条件を変えたさらなる発展はあり、それはそれで実り多い発展をしましたが、いまだにユークリッド幾何学はほぼ万人に正しく解釈、理解されてその正しさに挑戦して成功した人はおりません。

また、数学はゲーデルの不完全性定理により、己の限界さえもきっちりと示しています。

いま私はこれらの、「数式もしくは形式言語でなにか言わないと、バカが曲解する問題」をちらほらと折にふれて考えています。

予測可能性:ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?

カオス理論てなものがあります。

それに絡んでバタフライ効果というものもあります。

また、
風が吹けば桶屋が儲かる

ということわざがあります。

日本人もうっすらそういう因果の流れの果てに、とんでもないことが起こりえる可能性には気が付いていたみたいです。

ここでは、そういう原因と結果には、ほぼ人間の予測を超える関係が成り立ちえるとします。

いま、私が道を歩いていて、ご老人に道を尋ねられたとします。そこで善行をつみたい私は、丁寧に道を教えて差し上げたとします。

で、そのご老人は私が教えた道を歩いていて交通事故にあったと。

もちろん私は何の責任も感じません…が、何かの因果を感じます。これは比較的、観測しやすい原因と結果ですが、非常に長期にわたってそのご老人を観察した結果、明らかに私が道を教えたのがある種の原因となって10年後、そのご老人が命を落としたということも結果として(量子コンピュータなんかを使って)判明する可能性はあります。

善行や悪行とはなんなのかという疑問が残ります。




呼吸の重要性

呼吸がどれほど重要かは、たとえば、人間を10分間無酸素状態においてみればわかります。
死にますね。

いかに大量の酸素を効率よく安定して身体に取り入れるかは、特にパニックになりそうなときとか、恐怖を感じているときなど、感情を落ち着かせ理性的な判断を下すために死活問題です。

たとえば空手には息吹という呼吸法があります。すこし昔、千葉真一さんのモノマネで関根勤さんが面白おかしくやられていた”コゥー”というやつです。呼吸が乱れたときに強制的に良い呼吸をする技です。

近年注目を集めている、ソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンのボディーガードから教わったミハイル・リャブコ(en:Mikhail Ryabko)によって創設されたシステマという格闘技もパニックになりそうになったら、息をフゥッと吐けという教えがあります。

またヨガにもいろいろな呼吸法(プラナヤマ)があります。

私なりにいろいろな文献にあたってみて、ひとつ言えるのは、心身をリラックスした状態にもっていくのに、速く浅い呼吸が良いとしているものはまず無いということです。

で、人から聞かれたりしたときは、私は

「とりあえず、ゆっくり呼吸してみてください」

と言っています。深呼吸です。

 




人はなぜベジタリアンになろうとするのか

ヨガのティーチャーコースでならったベジタリアンになる理由とし記憶に残っているのは、

非暴力(アヒムサ)の観点からベジタリアンになる

これは私から見ると非常に珍妙な理屈に思えます。動物は非暴力的観点から食ってはいけなくて植物ならいいというのは、”お前が動物だから動物同士という身内喰いはなんとなく暴力とか思っているだけだろ”と思います。命という観点から動物と植物を区別する理性的な理由はみあたりません。ただ本能的に動物という広い意味での同族食いはなにかヤバイ気がするという感じでしょうか。 このあたり、植物の種はあれは胚珠が受精したものですからやはり命がかかわりますね。じゃあ、子房が変化した果実なら食べても非暴力なかんじも少しはします。仙人は果実だけ食べるなんて話も聞いたことがあります。それでも生きた細胞を食ってることはかわらんだろうという気がします。

 

人間の身体の機能的に歯は臼歯が多く、胃は酵素が肉向きのものが少なく、腸は肉食獣に比べれば長い

まず、大前提として人間って類人猿(チンパンジーは雑食)と共通の祖先をもちますよね?で、原始人とかはたぶん雑食ですね?そりゃ肉しか食べない肉食獣と比べりゃ腸も長いでしょうし、犬歯の発達もそれほどしてないでしょうけど、永い雑食の歴史があるのに何をいまさらという感想を持ちます。

 

エネルギーの視点から太陽のエネルギーに近いところから食物をとる

それが何の意味を持つのでしょうか?宗教的には意味があるのかもしれません。

 




ヨガのポーズの一挙手一投足にこだわるのはバカ

まず、何のためにポーズをするのか考えてください。たぶん普通の感じとしてはリラックスするためでしょう。最終的には、Yogas Chitta Vritti Nirodha (ヨーガス・チッタ・ヴリッティ・ニローダ) のためなんです。

それをインストラクターが「はい、吸って~」とか言って、「もう吸えないよ」みたいな感じになっているのに、まだ息を吸おうとしたりして精神統一がくずれたらバカらしいですよ。

まぁ、なんとか筋はこうすると良く伸びるとかはあるんで、身体をぐにゃぐにゃにしたい人はそうすればいいと思います。私の思いつく限りでは、自慢する以外に通常の生活で身体が異常に柔らかいことに深い意味があるとは思えません。

で、Wikipediaが情報源なんで真偽のほどはわかりませんが、体の不自由な方たちがリハビリとしてヨガを体操としてやるなら、それは西洋の体操からたかだが数百年前に輸入されたものですからヨガって言ってもまぁ、西洋で発達したストレッチをやっているわけです。

異常に、このポーズのここは手が上を向いてないとダメとか、目くじら立てている人を私も目撃したことがありますが、今となっては、その人なりの「偉く思われたい」って願望の発露なんだろうなと思います。

ただ、「なんとなく面白いし、難しいポーズをするとみんなが感心してくれるからやる」って人を私は否定しません。でも、人格の高潔さとかとはまったく関係ないですけどね。

Yogas Chitta Vritti Nirodha (ヨーガス・チッタ・ヴリッティ・ニローダ)

まぁ、ヨガの先生にこの呪文を唱えて、ポカンとした顔をしたら逃げてくださいニワカです。

「ヨガとは心の揺れ(動き)を止滅させることである」

この文句はヨガの理論を支えるバイブルとしてのヨーガ・スートラに述べられたヨガの神髄です。

ヨガの偉い師匠クラスになると、痛覚さえコントロールできるレベルに行くらしいです。

確かに、私もこれを目標にしているので、タトゥーで身体のどっかにデカく入れようかなと思います(白目)。

下の”インテグラル・ヨーガ”という書物が、このヨーガ・スートラをスワミ・サッチダナンダが解説したものです。私はこれを何度も読みました。


なぜ「悪の聖書」がないのか

今、イスラム教のコーランを読み始めたんですが、旧約聖書(ユダヤ教)、新約聖書(キリスト教)ときて、神の最新版の啓示として登場したものですが、やはり、ほぼほぼ、いわゆる道徳的なことを説いているんですね。

これらの「聖書」や原始仏教の経典なんかも、つまみ食いしたりしていますが、ほぼ道徳的に正しいであろうこと、善か悪かといえば、善であろうことを言っています。

で、疑問なんですが、なぜ「悪のバイブル」がないのかということです。こういうふうに人を陥れれば事はうまく運ぶとかいうバイブルがあってもいいと思うんですが、ほとんど聞いたことがないですね。中国の孫子の兵法がそれに近いのかなと思いますが。

悪事は悪事だけあって「悪いこと」ですが、うまくやれば「結果」は得られることが多いのではないだろうかと私は感じています。

老子だかなんだかで、道徳がすたれて道徳家が世に現れて、法がすたれて世に法家が現れたなんていう物言いを読んだのですが、悪のバイブルがないとすれば、それはいかに悪に染まるのは簡単で、善を行うのは難しいかということかなと思います。

ガンジーも愛読していたらしい、ヨガのギータであるヴァガヴァット・ギータはもうちょっと善悪を超越した感じがあって、「なすべきことをなせ」(敵方に親族がいるので躊躇している主人公に戦争しろとけしかけている)みたいな感じですね。

石川五右衛門

石川五右衛門といえば盗賊で、釜茹で的な処刑をされたひとというイメージがあるのではないでしょうか。

wikipediaによると…


有名な釜茹でについてもいくつか説があり、子供と一緒に処刑されることになっていたが高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めた説(絵師による処刑記録から考慮するとこちらが最有力)がある。またそれ以外にも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも言われている。


この最後まで子供を持ち上げていた説と、あまりの熱さに子供を下敷きにしたという説両方が、人間の可能性と限界を示唆するものとして深みがある話だなと思います。

人間の心と身体は個人差はありますが、やはりストレスがかかりすぎれば最終的には壊れます。私は心を壊したことがあるものとしてこのことは今では肝に銘じています。まぁ、あたりまえっちゃ当たり前のことなんですが、どうしても、特に日本人は異常に我慢する感じが強いですね。また、我慢するほうが偉いてきな。

私は今では「やせ我慢はよそう」と思っています。適度に泣き言も言いながら、ほどほどに生きていけたらなと思っています。




ヨガと超能力

Yoga Sala PREMALでTTC(ティーチャー・トレーニング・コース)を受けていた時、真理先生と順子さんそして私がいたと思うんですが、授業も終わり、帰り支度をしながら夜も9時を回ったあたり…

私:「真理先生…、ぶっちゃけ、ここだけの話ですけど…」

私:「ヨガの修行をすっごくやると超能力的なものが身につくとかありますか?」

真理先生:「う~ん、聞いたことないねぇ~w」

ガーーーン、超能力的な力がついたら貧困や差別、戦争を無くすとか偉いことして偉人になろうと思っていたのに(笑)

まぁ、ハタヨガの系統に超能力が身につくとかいう流派とか、ヨーガスートラにもちょっと超能力が身につく的な言及はあるんですが、私はいまはいわゆる超能力は身につかないんじゃないかというふうに思っています。あと超能力っていったって、スプーンを曲げられるくらいじゃ大した仕事できないですからね。

でも、心から感情や先入観などを一切停止して、理性のみで物事を判断できるようにはヨガを極めれば、なるんじゃないかなと思っています。今の目標はそれですね。

あと、ハタヨガのアクロバティックなポーズをできるようになって人気YouTuberになりたいです(嘘ですw)

 




断食のススメ

ヨガにハマって、一時期は62キロまで減量した私も立ちくらみとか弊害がでたので、BMI的なものから計算して70キロまでもどして、スーツとかオーダーメイドしました。この間3~4年の間の出来事ですね。

そんなこんなで油断していたら食事後体重74キロまで増えたので、70キロまでもどすために、いま断食1日目です。

やはり、煩悩具足の凡夫だけあって、ほうっておくと必要以上に食べますね。まぁ、おいしいってすごい快感ですからね(笑)。

で、いま断食一日目なんですが、もう72キロまで戻しました。いま70キロまでいっきに戻すか、思案しています。急激なダイエット(断食)はやはりよくないようですからね。

こんなの自慢になるのかわからないですが、私はたぶん食欲をコントロールすることが得意なんだろうなと思います。

「あ、とりあえず1日断食しよう」

と思ったとします。そうするともう空腹を意識レベルで感じなくなるんですね。たぶん無意識の意向としては、

「こいつの意固地さはハンパないから断食とか言い出したら絶対に食わないだろうから、意識レベルに空腹のシグナル送っても無駄だからやめよう」

的なしくみがシステムとしてみた心身の中で起こっているのではないかと思います。

最長で3日のあいだ固形物を食べない断食をしたことがあります、一切食欲を感じなくて、インターネットで調べたらいわゆる”飢餓モード”に心身が入っているらしく、それ以上やっても意味ないだろうと思ってやめました。

で、いまの日本ではすっごい痩せたい人が多いと思うので、アドバイスを送るとすれば、食欲を我慢するのも練習でうまくできるようになります。最初はすこしご飯やお菓子を減らすことから始めて、年単位で練習すれば絶対に食欲のコントロール力が向上することは経験者の私が保証しますので、がんばってください。

また、断食の効用は体重が減るだけじゃないです。

男性なら理解してくれると思うのですが、いいことしたあといわゆる”賢者モード”になりますよね?あれが断食中ずっとつづいていく感じで、非常に意識が澄んでいる感覚が続きます。もちろん知的作業とか肉体労働もできます。私は合気道の稽古にも断食中に行きましたが、適度に缶コーヒーで血糖値をコントロールしながらやってなんの問題もおきませんでした。ただ、もちろん自己責任でやってください。私は自分の体験からしか言えないし、医者でもないので自分はうまくいったと言えるだけです。

ソビエト軍から“白い死神”(белая смерть)と恐れられた、フィンランドの伝説のスナイパーであるシモ・ヘイヘさんも、インタビューで狙撃の秘訣を聞かれた際、ただ一言「練習だ」と答えたそうです。

何事も結局は練習です。

 




へんてこりんなポーズをするヨガは「創られた伝統」

さいきんWikipediaのヨガに関する記事が充実してきています。

また、いろいろなポーズをする現代流行っているハタ・ヨガに関する記事もあります。


健康やフィットネスを目的とするエクササイズとして20世紀後半に欧米で大衆的な人気を獲得したハタ・ヨーガは、多くの場合、単に“ヨーガ(ヨガ)”と呼ばれる。現在ハタ・ヨーガと呼ばれるものの多くは、19世紀後半から20世紀前半の西洋で発達した体操法などの西洋身体文化に由来し、インド独自の体系として確立した「新しいヨーガ」の系譜で、現代のハタ・ヨーガのアーサナは、伝統のハタ・ヨーガとのつながりは極めて薄いといわれる[6]。現代広く普及している、独特のポーズ(アーサナ)を練習の中心に据えたヨーガは「創られた伝統」であった[7]。(詳細は#現代のハタ・ヨーガを参照)


20世紀前半というと1920年前後ですかね。

まぁ、この記事が絶対に正しいという保証はないですが、私もいろいろなポーズをやりながら、

「ああ、たぶんラジオ体操でも真剣にやれば同じようなリラックス効果とか体へのいい効果は得られるんだろうな」

という感想を持っていたので、ありうることだなと思いました。

ただ、ハタ・ヨガのヘンテコリンなポーズはやっぱり少なくとも千年以上の歴史をもっていてほしかったです。正直言ってこの記事を読んでテンションが下がりました。

まぁ、気を取り直して自分のヨガを深めたいと思っています。

暴力について

私の体、私の心、私の財産、私の名声、私の地位、私の…

という認識を私たちが持っていて、それらを傷つけられちゃかなわないと思っている限り、「私」と対立関係にある主体がパワー(広い意味での暴力)を行使してそれを破壊もしくは毀損しようとする行為は絶対になくならないと思います。なぜなら”攻撃”として圧倒的に有効だからです。

私は、中学生の頃を最後に、30年以上、人を殴ったり蹴ったりしていないんですが、それはほかの国と比べて日本が驚くほど平和とか、私の周りが良い人ばかりだったとか色々な理由があるんでしょうが、やはり、(自分の身を守るためとか)最終手段としては物理的な力の行使はありだろうなぁと思っています。

でも、暴力関係で萎える光景は、国会で議員の先生たちが強行採決だかなんだかを阻止しようとして、議長のところへ詰めかけて、誰それがグーパンチしたとかなんとかニュースで流れたときですね。けっきょく物理的な力を行使するんじゃねぇかと、最終的には猿の殴り合いと変わんねぇじゃねぇかと萎えます。

 




ヨガの難しいポーズをできるようになって偉くなろうとしている人へ

偉くならないですよ。

ヨガのインストラクターとかでヨガを金にしようとか、人からスゴイって言われようとするのが目的ならその目的は達成できるでしょうけど、それでヨガ的に偉くなるってことはありえません。

ポーズができるから偉いってことなら、特異体質で関節が異常に柔らかい人なんかはどんなポーズでもできるでしょうが、ヨガ的に偉いわけではないのは自明のことです。

ハタヨガでも理論面をヨーガスートラに頼っている限り、ヨーガスートラが規定する心の余計な作用を止滅することができてはじめてヨガ的に偉いといえます。

でも、心の作用を止滅できる、だから俺は偉いんだと思っているうちは、偉くないです。

偉い人の特徴は、自分がまったく偉いと思っていないところにあるからです。

 




哲学入門

テツガクってなんだ?

というレベルの初心者の私でもよくわかるように書いてある書物です。

歴史上のいわゆる賢者的な人たちが何を考えて生きたのかがわかるように西洋哲学史がとても面白くわかりやすく紹介されています。

著者の飲茶さんの「どこでもドアの恐怖」についてのウェブページは一読の価値があります。単純に思考実験として面白いです。




ヨガのバイブル:ヨーガ・スートラ

ヨーガ・スートラは結局ヨガとは何を目的としているのか、具体的にどんな段階を踏んでいくのかということが解説されているヨガのバイブル的書物です。

Wikipediaによると…


ヨーガ・スートラ』(瑜伽経、ゆがきょう、とも)はインド哲学の1派であるヨーガ学派の根本経典。成立は2-4世紀頃。パタンジャリによって編纂されたとされる。『スートラ』は『糸』の意味であり、糸のようにパタンジャリが説いた短い言葉を連ねたものである。

ヨーガとは心の働きを抑制することである」の定義から始まり、三昧に至るまでの具体的方法としての8階梯と、その背景にある思想が述べられる。


で、いろいろな訳本が出ているようですが私は次のものをヨガのティーチャー・コースで使って、わかりやすく理解できました。


ヨガは、なんのためにヘンテコリンなポーズをするのか、それは心の動きを止めるためです。それができれば偏見や感情など正しい判断の阻害要因となるものを止めて、理性のみでものごとを判断できるようになります。智慧ですね。

仏教的には瑜伽経と呼ばれ、つまりお経として扱われております。

日本人にもおなじみの空海もこのお経を重要視していたようで、


小林良彰『空海とヨガ密教』(学習研究所, 2007) p.114

『空海は真言密教の行法を求めて唐に渡った』というのは、狭い考え方である。正確に言うと、『瑜伽経の内容を含めて、あらゆる行法を求めて』、『誰か良師はいないか』と期待して渡唐したのではないか。(略) 空海はこの経典に対して深い思い入れがあった。それを示すことが二つある。ひとつは『高野山金剛峰寺』という寺号である。『瑜伽経』の正式名が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』となっているから、その頭文字をとったのである。その意味では、高野山は『瑜伽経』を表現する場所であった」


だそうです。

簡単な年表

紀元前2500年頃 インダス文明において、ヨガの起源発生
紀元前1000年頃 ウパニシャッド聖典にヨガという言葉が記される
紀元前 500年頃 釈迦が生きた時代
       400年頃 パタンジャリのヨーガ・スートラ(瑜伽経)が成立
       800年頃 空海がヨガを瑜伽(ユガ)として日本へ伝える
     1300年頃 ハタヨーガ大成

 




オーム

まぁ、ヨガ的に「オーム」という言葉は大切なものです。詳しいことは省きます。

でです、私が高齢者の施設で30分ヨガ教室をやらせていただいたときに、私なりに師匠の真理先生が必ずレッスンの前にオームを3唱していたので、それを子分の俺が勝手に省くのはおかしいだろうと思って、高齢者の方たちにも「オーム、オーム、オーム」と唱えていただいてました。説明をたぶんしたと思いますが、まぁ、「ナムアミダブツとか南無妙法蓮華経みたいなものです」で終わらせたと思います。

で、高齢者の方から

「これって、オーム真理教のオームじゃないよね?」

と質問が出て、ここは適当なウソを言ってはいけないと思って、

「まったく同じものを指しています」

と答えました。

「同じものですが、たとえばナイフや包丁は人の役に立つ料理や工作目的にも使えるし、人を害するために使うこともできます。」

と付け加えたと思います。




ハタ・ヨガは自分の心と身体が話し合う時間

最近、私がハタ・ヨガをやるときは、以前あった

「体を柔らかくしてやろう」

「新しいポーズをできるようになって偉くなろう」

といった余計な料簡がとれて、都市生活をしているとおざなりになりがちな自分の身体の出しているシグナルを感知することに充てられています。いわば自分の身体と対話する時間です。

やるポーズはいつも同じで、太陽礼拝からはじまって、前屈、開脚、背骨をねじるアルダマツェンドラーサナ、戦士のポーズ、シルシアーサナなどなど。

昨日はよく開脚できたけで、今日はちょっと左ももの筋に違和感を感じるから軽くやって終わりにしようとか、その日、その日の身体のコンディションを文字通り感じます。

今日はなんかだるくてやる気がしないなという日でも、よし、太陽礼拝だけちゃっちゃとやって終わらせようと思って始めると、太陽礼拝が終わった後には、さらに他のポーズもやりたくなることが多いです。

ヨガの完全呼吸を太陽礼拝の間だけでもやると、気分が整えられるのが原因ではないかと推測しています。

もちろん太陽礼拝の後でもうやめたいと思えば、それ以上、自分に強制はしません。