世の中変えるつもりがないなら、ヨガとか仏教なんかやめちまえ!

すみません、ちょっとイキったタイトルつけたほうがウケるかなと思って、こんなこと言ってみました(笑) ぷー太郎のざれごとです(笑)

ただ、西洋哲学が最終的にセカイを破壊できる核兵器を産み落とせたなら、東洋哲学がまっとうに進化していたら圧倒的な平和を実現するナニカを産み出せていたはずだと私見ですが思っています。つくづく残念です。

認識系はいじれる

あなたがある場所に監禁状態であるとします。戦争で捕虜になったと考えてみてもよいです。で、一日中、地面にデカい穴をスコップで掘らされて、穴が大きくなったら、それを元通りに埋めるという作業だけをさせられると。

聞いただけで、ひどい拷問だと思う方もいると思います。ただ、あなたがココロの中で

「俺はいまヒョロガリで非力なので看守とたたかっても制圧されるだろう」

「この苦役を肉体のトレーニングとして利用して、いつか看守をノックアウトしてここから脱出しよう」

こう決意したら、毎日のくだらない無意味に思える苦役が、とたんに、希望につながる重要なトレーニングとなるはずです。

これは一例にすぎず、ほぼ無限に現在の行為に意味づけを与えてあげることはできます。

空想書籍:哲学書「認識の彼岸」クラウド・ファンディング開始のお知らせ

ヨガの修行したい…

からといって、自分の好きなようにはいかないのが浮世のキビシサですね…

私が信頼できる師匠をまず見つける必要があるし…まぁどこの国の人でもいいのですけど

で、修行してどうなりたいのってことですけど、わたしが感じているこの世に対する違和感が多少は解決されるような気がします。

わたしは基本的に知りたがりなんで、この世ってなんなのコレっていう大きな疑問をいまだに持ち続けています。

修行が進むと生きている実感が増すはず

ネットのどこかで、「仏教は人工的に修行で離人症を起こすモノ」ということをおっしゃっておられた方がいました。

離人症(りじんしょう、: Depersonalization)とは、自分が自分の心や体から離れていったり、また自分が自身の観察者になるような状態を感じること。その被験者は自分が変化し、世界があいまいになり、現実感を喪失し、その意味合いを失ったと感じる。慢性的な離人症は離人感・現実感消失障害 (DPD)とされ、これはDSM-5では解離性障害に分類される(DSM-IVの離人症性障害)[1]

Wikipedia 離人症

わたしはヨガや仏教にハマってから、3日間にわたる固形物の断食をしてみたり、

断食のススメ

熱心にヨガのポーズを毎日してみたり、

出来た!シルシアーサナ/ヘッドスタンドポーズ/三点倒立

で、最終的にいまはおもにヨガや仏教の哲学の部分を参考にしています。

ヨガのバイブル:ヨーガ・スートラ
仏教入門

で、離人症みたくなるかというと、私の個人的な感想ですけど、以前より主体的に生きている感じがハンパないっすね。あと激しい感情の起伏はないです。精神的に疲れるってことは持病の都合でありますけど。

修行の進んだときに出てくる魔境

これはいち仏教&ヨガ好きの妄想です。

修行が進むと、まずいままで自分を縛っていた社会慣習とかいろいろな制約がいったんはずれて、「自分は自由である」という認識がでてくると思います。天上天下唯我独尊てなもんです。

たしかに、心理的なタガが外れると、物理的にはなにをどうしようと行動をすることはできるわけです。

で、ここからが魔境と呼ばれるよろしくない言動が発生してしまうメカニズムだと思うのですが、自由なので何やってもいい → おさえつけていた、笑っちゃうほど俗っぽい動物的な欲がひょっこり顔をだす。はたからみていると、「なんだこいついやに俗っぽいな」となるわけです。

わたしのヨガの先生の目撃談として、ある男性生徒が女性を触りまくるとかそういう場面があったらしいです。

紙の製造工程を植物由来の宇宙人に見せたらマジ切れ

まぁ、星新一さんのショートショートにそういうのがあったなと…

星 新一(ほし しんいち、本名:星 親一1926年大正15年)9月6日1997年平成9年)12月30日)は、日本小説家SF作家
父は星薬科大学の創立者で星製薬の創業者・星一森鴎外は母方の大伯父にあたる。本名の親一は父・一のモットー「親切第一」の略で、弟の名前の協一は「協力第一」の略。父の死後、短期間星製薬の社長を務めたことがあり、日本の有名作家としては辻井喬こと堤清二西友社長)と並んで稀有な東証一部上場企業(当時)の社長経験者である(ただし、堤の場合は西友の経営参加や上場よりも創作活動が遙かに先行しており、星の場合は完全に経営を離れたのちに創作活動が始まっている)。
豊富な作品量でありながら、それでいてどの作品も質の高さを兼ね備えていたところから「ショートショート掌編小説)の神様」と呼ばれているが、『明治・父・アメリカ』、父親や父の恩人花井卓蔵らを書いた伝記小説『人民は弱し 官吏は強し』などのノンフィクション作品もある。小松左京筒井康隆と共に「SF御三家」と呼ばれる[3]

Wikipedia 星新一

私はたぶん星新一さんのショートショートは私が大学生の頃手に入るものは全部読んだことがあると思います。まぁ、中学だか高校の教科書にもひとつ作品が掲載されていました。

日本SF御三家でいうと、筒井康隆先生の作品もほとんど全部読んでいます。なぜか分からないですけど、小松左京さんの作品はたぶん一切読んでないと思います。

この乞食がッ!!

という批判とか蔑み(さげすみ)、罵倒は仏教僧には効かないというか…

まず、乞食(コジキ)という言葉自体が、釈迦が弟子にやらせた乞食行(こつじきぎょう)から出てきているからですね。わかってて乞食をやっているわけです。批判蔑み上等でやっているし、じっさいにいろいろなイヤな目にあうこと自体が修行です。


タイの仏教僧が托鉢でもらえるフライドチキンとかを食いすぎて結構な数の僧侶が糖尿病とかの生活習慣病になっていると聞いたとき、

「コイツらバカかな…、必要なだけ食うなりもらうなりして節制すりゃいいだろ…」

と思いました。(釈迦の弟子を名乗るならもう少しシャンとしなさいという…)


ちなみに私の記憶が正しければ、日本では乞食行為はたしか禁止する法律があったはずです。まぁ、わたしも乞食はイカんだろとおもいます…

でです、仏教じゃなくヨガのほうの話なんですが、ヨガでそこそこ人気のある先生が「日本の金持ちは寄付をしてくれなくて…」みたいに嘆いて見せてたのを見たことあるんですが、

「人が苦労して稼いだカネをそうそう簡単にもらえると思ってんじゃねぇーよ、このコジキが!!」

というのが私のそのときの正直な感想でした(まぁ、例によって言わないんですけど…)

自分は良いことしているし、良いことに使おうとしているから、だれか金持ちがお金を恵んでくれるはずっていう、私からすると甘っちょろい考えには正直イライラします。じぶんで、売春するなり、土方するなり血を流して稼いでみろよと思います。

寄付を集めることについて

インタビュー】托鉢僧には暴力団関係者が紛れている場合も!? イカサマ僧侶の正体は… 狡猾すぎる「托鉢シノギ」の実態!

TOCANA 好奇心の扉 トカナ

信仰それじたいに意味がある

私は残念ながら信仰はもちあわせていません。いろいろ考えすぎる性格が災いしているとおもいます。バガバットギーターで述べられているヨガにおける修行方法の分類で敬愛のバクティ・ヨーガや無私のカルマ・ヨガなどあるなかで、理屈を突き詰めるニャーナ・ヨーガを自分では気が付かずにやっている状態だと自己分析します。

聖者と言われている人なんかが、信仰の対象に敬愛をささげるバクティ・ヨーガは非常に価値があるものだと言っていたのを文献とかで読んでいたんですが、正直なぜバクティ・ヨーガがそれほど重要なのかが理解できませんでした。

結論から言うと、バクティ・ヨーガが重要なのは自分の(論理的思考とかでなく)感情エネルギーを信仰対象に注ぐことで精神が安定するからだなといま気が付きました。敬愛をささげる対象は神仏とか歴史上の偉人とか社会的にほぼ問題のない対象ならなんでも良いのですが、信仰心それ自体が心の平和を促進する作用があります。

愛、慈悲、空

以前、ヨガの理論面での先生に個人的に授業の感想のメールを送って、返ってきた返事のメールに「けっきょく、愛ですよね愛」みたいな文言があって、アレ?と私は思いました。

仏教では、肉欲につながる”愛”と強者から弱者への慈悲としての”愛”を区別して扱います。で、愛欲はほどほどにどんなものか楽しめばいいと思いますが、ハメをはずすとクソみたいな事態になりますね。で、もう一方の慈悲はたしかに人間社会では価値あるものだと思いますが、それも残念ながら地球上で繁栄した人類という生き物に特有の価値観だと思います。とはいえ、私も人間ですので慈悲の心を持ちたいものだと思っています。

そういう上辺をとりはらった、この世の核となるナニカもしくはそのナニカの状態を表す概念としてはやはり空(クウ)なのではないかと思います。といいつつ、空とはなんなのかはわかりませんが(笑)

インナースマイル?

こんな顔で最近はすごしています。
ヨガにはインナースマイルという概念があって、まぁ、自然な笑顔が出ない生活はよろしくないでしょうというようなことです。

私はとくに携帯の代理店の女性とか、女性の看護師さんと接しているときによけいヘラヘラしますね。

人類にワンチャンスあるとすれば…

以下はいつにもましてポエム&妄想です

理系のロマンである量子力学と数式には触れずに(まだ完全に思い出していないので…)戯れていますが…

まぁ、二重スリット実験が面白んですが、

“あの”フォン・ノイマン博士が、抽象的自我なんて口走ったという…

結果からいうと、ある種の自我意識が物質界と相互関係がある可能性もしくは解釈が可能かなぁという…

でです、この世の自我あるもののネガティブな想念とポジティブな想念の総量を比べて、ネガティブが勝っていれば世間もネガティブな方向に向かうとか(逆もそう)が科学的に証明されれば、どんな貧乏人の意識状態にも心を配らざるを得ないという事態が出現します。

つまり、不満や鬱屈をためているひとが多くいれば、人類全体に悪い影響をあたえると科学的に証明できれば人類みな兄弟てきなハッピーな展開も期待できるかなと…

 

バガヴァッド・ギーターのメッセージ

Wikipediaより


バガヴァッド・ギーターは、700行(シュローカ[1]韻文詩からなるヒンドゥー教聖典のひとつである。ヒンドゥーの叙事詩マハーバーラタにその一部として収められており、単純にギーターと省略されることもある。ギーターとはサンスクリットで詩を意味し、バガヴァン英語版の詩、すなわち「神の詩」と訳すことができる。


私なりになんどかバガヴァッド・ギーターを読んで受け取ったメッセージは、

「なすべきことをなせ」

並列コンピュータの個々のCPUみたいに、個々人が自分がなすべきだと感じたり、考えたりしたことをやれば、当然、衝突することもあるでしょう、しかし、
個々の人々がなすべきだと(なるべくなら私心無く)感じたことをやった結果がどうであれ、それはしかたがないことである。

その結果はだれのせいというわけではなく、人類がだした演算結果として受け入れざるを得ないというのが私の最近の感慨です。

諸法無我とアートマン

釈迦はというものはないといいました。それが諸法無我

ヨガでは、アートマン(真我)というものを想定しています。

で、私は正直、我があるかないかは、どうでもいいなぁと思っていました。


ヨガの文献で、”何者をもあなたのアートマンを棄損することはできない”なんて読んだことがあるんですが、その言わんとしていることが最近はなんとなくわかるような気がします。


あえて、図形的にたとえると、理想の我というのは点でしょうか。

で、点というのは、面積がないわけでほんとうは平面上で見えるはずがないんですね。

でも、点というものを想定することはできる。で、点の集合として図形とかも想定できるし、そういう意味では点はあるとも言えます。

で、この我があからさまに、でかい円になっている人が多くいます。つまり面積をもっているわけです。その面積には、”私は美しい”、”私は賢い”、”私は生まれが良い”とか、いろいろ抱え込んでいるわけです。で、そういう肥大した自我という円からなんらかのご自慢の属性が削られたり、ケリを入れられたりすると(つまり敬意が払われていないと感じると)苦痛とか怒りとして感じられるわけです。

で、それじゃ辛いだろうから、我というのは無いと考えよというのが釈迦で、アートマンは面積がないんだから、削られたりする苦痛もないはずというのがヨガかなと思います。


もしかしたら、こういうたとえはすでに誰かがしていて、私がそれを読んだりしたのを忘れてしまっているだけかもしれません。

釈迦と群

釈迦は弟子のバカさかげんを甘く見ていたと思います。

マハー・パリニッバーナ経に記述されているように、釈迦が死んだあとにすぐに遺骨の取り合いが起きているのでもわかります。

聖人とその弟子というインドでの伝統的な方法論をとってしまったのが運の尽き。

そして、釈迦レベルの聖者でもほんの数人がこの世にあらわれるくらいじゃ、世の中まったく変わらないだろうと思います。

そして宗教にしてしまうのではなく、あくまで哲学として広めないとよけいややこしくなるだけですね。

釈迦もいま世界中にある”仏教”という形で自分のさとりが伝わるのを望んでいたかというとそうではないと思うのですね、もっと”正しく”伝わってほしいという意図があったはずです。

で、釈迦の”さとり”自体も、あくまでそういうこの世の解釈系のひとつであって、他の解釈系も存在するだろうし、そっちのほうが良ければそっちでやればいいと思います。

べつに釈迦のさとりが唯一無二の”真理”だとは私は思っていません。


”人格”をブートストラップするには、核となる”この世の解釈系”が必要となり、それにしたがっていろいろな思考や行動をしている(ように人格は錯覚する)必要があります。

で、ふつうは社会通念みたいなのでうまく人格が立ち行くわけですが、身内の死とか、いきなりのリストラとか”理不尽”が起きると必死に人格はその”意味”をさがすわけです。で、この世の理不尽とか矛盾にぶちあたったときに、それでも人格として機能するためには、社会通念よりもっと根源的な”説明”が欲しくなります。それが哲学だったり宗教だったりするわけです。これはたぶん理不尽が多い芸能界で、”良い人”っぽい芸能人の多くが宗教に入っていることでもわかります。


ただ、人格の下にある、もっと根源的なもの、PCでいうBIOSレベルで、ある種の生き物としてハードワイアドにどこからか与えられた命令は、

”生きろ”

そして、個体としての自分は死ぬので、

”子孫を残せ”

これがあるだけだろうと思います。


ヨガの聖者がなぜ最終的に山にこもることになるか

これはポエムです。また科学用語も私がフワッと理解しているフィーリングで書いています。

まず、複雑系という概念があります。

で、複雑系は初期値への鋭敏さや、”複雑”なだけあって、細部が異様に相互に結びついているので、

”ここに問題があるな、この部分’だけ’を修正しよう”

こういう態度は、複雑系を扱うときは必ず予期せぬ副作用が他で表れて、かえって問題が拡大したり、もっと大きな別の問題が発生したりします。

ただ、観察者にとって、ある複雑系が、全体としてまずまずの良い状態とか、悪い状態とかは主観的ではありますがあるはずです。

私がヨガをやってて、もっていた疑問のひとつは、

”聖者と言われている人が複数いた。なぜ聖者は社会に手を突っ込んで’良く’しなかったのだろうか…”

今の私の理解では、

”社会に手を突っ込んで’悪い部分だけを改善する’というのは至難の業”

ということを理解し、へたにいじくらないのも聖者の態度であると自重していたのだろうと、結果として山にこもることになったのかなと思っています。

他人に卑しさを見たときは

その見立て通りその人が卑しい心の動きで動いていることもありえますが、

あなた自身が卑しいこころの動きを持っているから、それを他人の中に見ているだけという可能性も十分あり得ます。

Do not judge, or you too will be judged.  For in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you.

Why do you look at the speck of sawdust in your brother’s eye and pay no attention to the plank in your own eye? How can you say to your brother, ‘Let me take the speck out of your eye,’ when all the time there is a plank in your own eye?  You hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother’s eye.

ダークソウル3: 信じることの不可思議な力

格闘技システマの指導者(元傭兵か軍人)の言葉だったと思うのですが、信仰がある傭兵のほうが体感では生存率が高かったということを聞いたことがあります。

その信じる力の不思議さは私も最近体験していて、まぁ、たんなるコンピュータ・ゲーム攻略での話にまでいっきに格が落ちますが(笑)。

Darksouls3というゲームを去年プレイしていました。アクションRPGでプレイヤーは死んで攻略法を見つけていくという”死にゲー”と言われるジャンルの本流の作品です。

で、私も何度も死にながら、どうにかこうにかゲームを進めていったのですが、どうしても、ラスボスのひとつ前のボス(兄弟二人を倒さなければならない)が倒せない。

ここで、私の基本信念は”ロールプレイングゲーム(RPG)の敵はこちらのキャラのレベルを十分上げていればいずれ勝てる”です。これはゲーマーとしてコンピュータRPGをプレイしてきたことからくる信念です。

でも、はっきりいって10レベルくらい上げたって、自分のキャラクターは数値的にはそんなに強くなっているとは思えないんですね。

とはいえ、この”レベルを上げることによるキャラの強化”を信じてコツコツレベルを上げるわけです。その間に何度も当該ボスにもチャレンジして討ち死にしています。

ここらへんで、試行錯誤が発生して、Youtubeで当該ボスの撃破動画を検索して参考にしたりしだします。

私のキャラクターは重装甲で防御し、巨大な両手斧の大ダメージを、殴られながら叩き込んでいくという、たこ八郎師匠のボクシング現役時代のような戦法でした。

今でも面白い現象だと思うのは、魔法使い系のキャラクターによる攻略動画で、布の服を着て一撃もくらわずにそのボス敵を倒している人のものを見たとき、”自分もできそう”と思ったんですね。

”なるほど、一撃も食らわないんだから鎧を着たりする必要もないのか”

と考えて、乞食みたいな恰好をして回避性能を上げてプレイしだして数十回当該ボスに挑んで、あと3発攻撃を当てれば倒せていたというところまでいきました。

“できそう”と思って信じて練習していると実際にできる方向に物事がすすんでいくこの感じは面白いなとおもいます。

結局、最終的には、普通の人がレベル80前後で攻略するところを私のキャラクターはレベル130くらいにまでなっていて、装備は中程度の防御と巨大両手斧でクリアできました。


「DARK SOULS」(ダークソウル)で死なないための5か条