ひま人のヨタ話なんで真面目な方は怒らないでください。(勝手に私と釈尊の仲だからということで例に使わせていただきました)
たとえば、「ソクラテスとかプラトン、アリストテレスがなんぼエライのかしらんけど、俺がダンプカーでど~んとはねれば死ぬだろ」と言われれば、そりゃそうだと思う人が大半ではないでしょうか。哲学者だからですね。
でも、釈迦とかそのほかの教祖の場合は「そんなこと考えたこともなかった」とか、「そんなこと考えるのは不謹慎」とかいろいろな感情がでてくるのではないでしょうか。まぁ、宗教の教祖なのでしょうがないですけど。
残念ですが、私にはこの手の”神聖にしておかすべからず”の人が世界に複数いることが結局は大小の争いにつながってきたんだろうし、これからも延々とこの手のもめごとを続けるのかなという思いがしています。
人をあまりにも特別視することは良いこともあるでしょうけど、キケンというか不幸を招くような側面も多々あるのではないでしょうか。
わたしが釈迦にもっている違和感は、
— 峯島雄治 Minejima Yuji (@yuji_minejima) May 27, 2020
・聖者として足にキスとかさせているところ
・ただめし食い(まぁ説法(漫談)で食ってると考えてもいいですけど)
ただ、これらの教祖がなにか人知を超えた領域に到達した存在だった可能性も私は否定できません。
信仰それじたいに意味がある
ヨガの文献を読んでいて、「彼(ガンジー)のアヒムサ(非暴力)が究極にまで徹底していたとしたら、彼を暗殺することはできなかっただろう。アヒムサ(非暴力)にはそういうパワーがある」という物言いがあった気がします。
願い事が1つかなうとしたら
とはいえ、基本的にこの世には、”相手をゲンコツでブっとばして屈服させたもの勝ち”というルールが基底にあるように感じられるのが私としてはとても残念です。
“釈迦もダンプカーでど~んとはねれば死ぬ問題” への5件の返信