ダークソウル3がおもしろい(いまさらw)

私は”死にゲー”はダークソウル3が初めてだったのですが、両手斧一直線というロマンを追い求めた結果、持病が悪化しかけるほどイバラの道を歩んだわけです。それでも意地で、いちおう本編はクリアしました。

ダークソウル3: 信じることの不可思議な力

その後、いろいろな世間での話を聞くとどうやら盾がこのゲームでは重要らしいということに気が付きました。


初心者を中級者へと導く,「DARK SOULS」(ダークソウル)で死なないための5か条。これを読めば誰でもクリアできる(はず)!


そういうわけで、美女キャラのレシピをネットから調達して、新たに盾+直剣という王道を歩み始めました。

“あ~物理カット100%の盾はありがたい”これをいまかみしめています…

現在、盾によるブロックを攻撃の軸にすえて、ブロックして敵が態勢をくずしたところを攻撃、攻撃、攻撃というパターンができました。これだと、盾+槍のロスリック騎士なんかは、盾を構えたまま攻撃してくるので困っていたんですが、直剣の戦技である”構え”でこれも対処できることを学びつつあります。

黒い砂漠Mobileのようなスマホの画面タップ、タップですすんでいくゲームがある一方で、複雑なコントローラー操作を必要とするダークソウル3の楽しさを味わっています。昨日、フロムソフトウェアの新作で、ダークソウルの系譜と思われる隻狼が発売されたのでそれも気になりますね。

プリコネRは駒を育成できる将棋

プリンセスコネクト Re:Diveを正直テキトウに数か月のあいだ遊んできた私ですが、だんだんと魅力を以前より感じるようになりました。

プリンセスコネクト Re:Dive(プリコネR)

物語を進めるうえでも、PvPでも、バトルが重要なのですが、勝てるにはどうしたらいいのかみたいなことは正直いままで深く考えず、”レベルを上げれば勝てる”くらいしか考えていなかったのですね。

そんな私もだんだんと各キャラクターに固有のスキルの説明などを読み始めました(遅w)。

で、ハタと気づいたのは、これは駒を育成できる将棋とも見られるなということです。最初は★一つのザコキャラでも、愛情をもって★5つまで育てればそれなりの活躍ができるんですね。将棋でいう歩を丹念に育てた結果、飛車なみの使い方に耐える駒になるみたいな。

今回、ルナの塔という定期的に行われるコンテンツに挑戦していて、この感じを強く持ちました。

ルナの塔は、1Fから始まって、2F、3Fとどんどんフロアを攻略して上階へあがっていくコンテンツです。で、本番の戦いの前に模擬戦といわれるものがあって、自分が組んだパーティがどのような戦いをするのかをシミュレーションできるんですね。このキャラはこういう特性だからどうだろうなんて、試行錯誤を繰り返している感じが、かなり知的なゲームをしている感覚を味わえます。

ビデオゲームは物語るための最新のメディア

フィクションやお話を広く人に伝える手段としては、まず紙に文字で書いて伝えるという方法があります。小説なんかがそうですね。

昭和の頃なんて、小説家が社会に与える影響はかなり今よりも大きかったのではないでしょうか。(なんで日本の文豪って自殺ばかりなのだろうみたいな余計な疑問も浮かびます)

まず言葉でつたえる、でも、もっとインパクトを与えるためには絵があるといい、さらに絵が動いて音もある動画がいいということで、マンガや映画、テレビなんかが流行ります。

で、さらにもう一歩進めて、内容にプレイヤーがかかわることができる対話性のあるビデオゲームが登場します。

私のお気に入りのウィッチャー3なんて、私の選択肢の選び方ひとつで、ゲーム内の国の存亡が変わってきてしまうほどです。

ウィッチャー3をプレイした感想

そこから、さらにもっと没入感を深める技術として仮想現実(VR)がどうやらゲームの表現手段として立ち上がりそうです。

私もiphone8を去年せっかく買ったので、DMMでお色気VRムービーを一つかって、千円くらいの安いヘッドセットにiphoneを入れて体験してみたんですが、たしかに女性がサービスしてくれて酒を飲ませてくれる店に実際にいるような臨場感がありました。

最終的にはやはりマトリックスの世界なわけです。

いまごろ映画マトリックスの感想

マトリックス的な技術が可能になったら、徳川家の何代目かの(家康はたいへんそうなので)将軍体験シミュレーターみたいなのが出てくれば体験してみたいですね(笑)。

漢字「壁」をめぐる脳内散歩

私のちょっと変わった趣味として漢字の勉強があります。

気が向くと、ipadで漢字の書き取り練習なんかの問題を解いたりしています。何かに役に立てようとか金に結びつけようとか言う具体的な計画は一切ないのでやはり趣味なわけです。しいて偉そうに言えば日本人としての教養としてでしょうか。

お気に入りのアプリは学校ネットさんの「漢字検定・漢検漢字トレーニング」です。無料で漢検二級まで対応しているんですが、日常的な日本語の運用には十分だと思っています。一級の問題をチラっと見たことあるんですが、ちょっと難しすぎて普段の生活ではあまり出会わないような漢字の知識を求められている気がしました。

今日も久しぶりに中学在学レベルの漢字の書き取り問題をやっていたら、「壁」をど忘れしてしまっていました。昔はカベといえばたぶん土を使ったのだろうという推理と感覚的に覚えている部分で、土がつくことはなんとなくわかったのですが、「 辟」の部分があやふやになっていたんですね。

正解をみてから、ちょっとした脳内散歩の気分で、Windowsアプリの漢字辞典を立ち上げて「壁」を調べてみました。

「 辟」 自体が漢字としてJISでコードもふられているのを知って少しおどろきました。肝心の意味ですが、 君主とか、わきへ寄るみたいな意味があるようです。

そして、じょうへき(城壁)とかから、 辟 のつく漢字は音はヘキなんだろうと思って思い出してみると、完璧(かんぺき)、悪癖(あくへき)、など 「 辟」 が音を表す部品として使われている形声文字がどんどん思い出されました。

この小散歩でちょっと 辟(ヘキ)と親しくなれた気がします。

お金を無限に持っていたらどう感じるか

お金に関してすこし面白いなと思う経験をしたことがあります。それは、無限に金を持っていたらどう感じるかというものです。

現実ではそれは無理なので、バーチャルなビデオ・ゲーム内での話となります。ゲームというとバカにする人がちらほらいますが、疑似体験としてはまんざらバカにできない没入感と感情移入をいまのゲームでは経験できるというのが私の感想です。

ロールプレイングゲームというジャンルの名作であるThe Elder Scrolls V: Skyrimというものがあって、私はその仮想世界のなかで数百時間を過ごしました。友人には数千時間すごした人もいます。

Skyrimの世界は社会発展の程度としては剣と魔法のファンタジーによくある現実でいう中世の頃のような感じです。当然、お金も存在し、ゲーム内で有利な立場を築きたければやはりたくさん欲しいわけです。

そして、このゲームには、開発者が使うためであろうコンソール・コマンドというものが存在し、”Nenbutsuの所持金を1000万Goldにする”みたいな命令をいくらでもすることができるわけです。こういうコマンドを使えば、Skyrimの世界である種の神のごときふるまいをできます。

人からの好感度も操作しほうだい…

いろいろ遊んだ末に、私はいちど好きなだけ金を使えたらどんな気分かということをやってみたことがあります。結果として”最初は有頂天になって買い物しまくるが、最後はゲームが面白くなくなった”のですね。

武器屋に入ってよさそうな魔法効果の付いた武器があればかたっぱしから手に入るし、体力回復ポーションも無限に手に入る、家もすぐ買えるし家具も一瞬で揃えられる、結婚にあたっての資金の心配もない、そもそも、ゲームの重要な要素である、お宝を求めてダンジョンを探検する意味がなくなってしまうのです。

この体験をもって、現実で金なんかたくさんあってもしかたないとか、すっぱい葡萄の話みたいなことを言うつもりはありません。でも、金をたくさん持ったらそれなりの楽しみ方を学習し直さないと、この世を空虚に感じてしまう場合もあるなと思いました。

xのy%はyのx%

xのy%を数式で表すと、x × (y ÷ 100) ですね。y ÷ 100 の部分がy%を表しています。で、この式を意味は同じまま変形して、 y × (x ÷ 100)としてやることができます。で、この式を日本語にもどすと、y の x%と読むことができます。

つまり、xのy%はyのx%であると。

75の4%というと、アレいくつかなとなりますが、4の75%(つまり4の4分の3)で、答えは3とウマいハックですね。

下記のサイトで知ったのですが、たしかにそうだなと面白く思いました。

数字を入れ替えるだけ!?パーセント(%)を求めるの計算が楽になる方法が海外で話題に

数学的帰納法の面白さ

まず、あなたが自然数一般(1, 2, 3, …)nについて成り立ちそうな何らかの等式を思いついたとします。でも、ラマヌジャンのようにそれは天から降ってきたようなもので、左辺と右辺をいくら式変形していじくっても左辺=右辺の正しさを証明できそうもない…

で、とりあえず、n=1のときは成り立つのを手計算で確認します。おしおし、やっぱり正しいかもしれない…ということで、仮にn=kのときにその等式はなりたつものと勝手に仮定します。この勝手に仮定した結果としての等式を道具として、n=k+1のときにも等式が成立することを示すことができたとします。

そうするとn=k=1のときは等式は成り立つので、n=k+1=1+1=2のときも成り立ってというふうに、バララララ~とすべての自然数についての証明ができてしまうという…

私はこの勝手に仮定してしまって、さらにそれを基礎としてk+1の場合を考える感じがすごく面白いと思っています。

愛、慈悲、空

以前、ヨガの理論面での先生に個人的に授業の感想のメールを送って、返ってきた返事のメールに「けっきょく、愛ですよね愛」みたいな文言があって、アレ?と私は思いました。

仏教では、肉欲につながる”愛”と強者から弱者への慈悲としての”愛”を区別して扱います。で、愛欲はほどほどにどんなものか楽しめばいいと思いますが、ハメをはずすとクソみたいな事態になりますね。で、もう一方の慈悲はたしかに人間社会では価値あるものだと思いますが、それも残念ながら地球上で繁栄した人類という生き物に特有の価値観だと思います。とはいえ、私も人間ですので慈悲の心を持ちたいものだと思っています。

そういう上辺をとりはらった、この世の核となるナニカもしくはそのナニカの状態を表す概念としてはやはり空(クウ)なのではないかと思います。といいつつ、空とはなんなのかはわかりませんが(笑)

人間の価値

私は根底においてはニヒリスト(仏教的には空論者ですが、無と空が同一なのかはまだ確信がないです)なので、すべてのことに本来的で絶対的な価値はなく、あるモノに価値があるとする主体がいて初めて価値というものはでてくるという立場です。

ニヒリストなのになぜ毎日が楽しいのか

だって、人権とか人の命は地球より重いとかなんとかって、それは”そういうことに人間社会ではしましょう”っていうある種、いってしまえばバーチャルな単なる約束事というか目標ですよね。

そういうお約束が通じない場面、たとえば、インドの林でトラに出会った場面を想像してみるといかに勝手な約束かがわかります。トラに”私には人権があって”みたいなこと言ったって滑稽ですよね。

で、そういう根底にある価値観を踏まえたうえで、やっぱり私も人間として人格を保っている以上、同族の人間には価値を感じます。褒められればうれしいし、けなされれば傷つきます。(ここらへん、ヨガでも仏教でもかならず何度も言われるのが、”称賛と中傷どちらに対しても心を動かしてはならない”です)

このまえYoutubeでみた動画で武田邦彦先生がおっしゃっていた人間観が私のものとほぼ同じだったので、それを紹介させてください。

まず、人間には価値があるとします、で、それを数値で表すと1000くらいとします。つまり、人間であるという時点で1000の価値がある。で、商売の天才とか、異常に頭がいいとか、美人とか、格闘技の達人とか、ドラッグ中毒とか、引くほど卑しい心根とか、ポン引きとか、そんな価値に関係のありそうなその他の属性は±10くらいの違いしかないというものです。

ものすごく偉いひとでも1010の価値、人が眉をひそめるような大悪人でも990の価値。

なぜ、そういうふうに思うのかは、正直、理屈では説明できないです。ただ、それが50年近く生きてきた、私という人格の中で構築された人間観だという…

非暴力不服従

ガンジーは一発芸

非暴力不服従という戦い方について、先日亡くなられた西部邁先生が以前、

「ああ、日本が非暴力不服従で行くっていうなら、私はそれに従いますよ、でもね、本当にできるんですか、みなさん?」

みたいな意見をテレビでおっしゃっていました。西部先生はwikipediaによると若いとき吃音だったらしく、たぶん屈辱とはどういうものかをご存じの方だったと推測します。

私はほぼ同じ意見だったので記憶に残っていたわけですが、自分の言っていることの結果として何が起こりえるかという想像力に欠けた人があまりにも多いという無力感にさいなまれることが私もたまにあります。

死はかならずしも悪いものとはいえない

と言うと、エッとなりますよね。でも、私は死んだらどうなるかはいまは分からないと思っています。科学的な思考をたどっても可能性として死後になにかあってもおかしくないといまは思っています。(まぁ、その裏付けみたいなのは量子力学の二重スリット実験における意識の問題です。これを書くにあたり、また飲茶さんのサイトを読み直すつもりでしたが、見切り発車してしまいました)

その”何か”とは何なのか残念ながらわかりません。

薬師丸ひろ子さんの「セーラー服と機関銃」の歌詞に”さよならは、別れのことばじゃなくて、ふたたび会うまでの遠い約束”というものがあって、それがイヤに気になった時期が私はありました。まぁ、17歳の多感な時期に父親に死なれると死とか生きる意味みたいなのをどうしても考えざるを得ないんですね。どうどう巡りして終わりとわかっていても。

ある日本のお坊さんが娘が自殺してしまった両親にした説法で、「死ぬほど苦しみ悩んだ娘さんという主体は、もうありません」というようなものがあったと聞いたことがあります。キリスト教の信者である若いゲーム友達が「仏教はそこまでしか言えないんですよね」と言っていましたが、あなたの娘さんの苦しみは終わったと伝えることはかなり意味があることではないでしょうか。

子供のころ、死ぬと”この自分”というものがなくなると想像して眠れなくなるほどの恐怖を感じたことがあります。私のいまの感じだと死は”いつやってくるかわからないが、必ずくるもの”という感じです(ある種の救済措置のようにも感じています)。

塾で教えていて生徒になんかのはずみで、「わからないよ、センセイだってこの帰りに交通事故で死ぬかもしれないし」というようなことを言ったらかなり驚いた顔をしていたので、若者にとって死というものはまだ意識するようなことではないのかもしれません。

唯物論的な”死=終わり”ではなく、”死のあとに何かがある”ということが科学的な意味で証明されれば刹那的になりがちな世の中も、すこしはちがってくるのかなとも思います。