高校時代の国語の授業で、先生が質問をしたけど生徒は誰も自発的に手を上げないでヘビとカエルのにらみ合いみたくなって…というありがちな日常のヒトコマで、
先生:「はい、じゃ、あてます、峯島、わかるか?」
私:「それは、~~~です。」
先生:「正解、なんでわかった?」
私:「えっ?? いや、教科書に書いてありますけど…(え?え?もっと因果関係とかそういうこと??)」
私の学生現役時代の”勉強”への認識は、教科書を”読めばできる”、”読まなきゃできない”というものでした。そういう感じだったので、大学受験でも予備校のたぐいには一切行ったことがなかったし、模擬テストもたぶん受けたことがなかったと思います。大学受験本番ではそのころあった共通一次テストというものでしくじって、本当は横浜国立大学へいきたかったのをあきらめて、私立の東京理科大学を受験して、”これは受かったな”という手ごたえが自分なりにあったので他の大学は一切受験せずにいて、結果発表も見に行かず翌日の新聞発表でやっぱり合格していたのを確認したという感じでした。
で、こういう具合のいわゆる”勉強”への認識がごく普通のこととかなり最近まで思っていました。理解力には各個人でバラつきがあってみたいなことを実感を伴ってハラの底から気が付けたのは、塾で教えさせていただいてからです。
世の中には、背の低い人もいれば高い人もいる、力持ちもいれば非力な人もいる。おなじ日本語で書かれた教科書を読んでもスッと理解できる人もいれば、そうじゃない人もいる。この今となってはごくごく当たり前のことに私が気が付くのに40年ほどかかっています。ただ、無意識のうちでは本当はわかっていたのに、それを意識の上に乗せると最悪、迫害をうけるというような配慮で、わからないふりをしていただけかもしれません。