平和をただ願うだけの人はうっとりするほど無力

まぁ、私のことなんですが…

私は自分の心に関しては50年近く付き合ってきただけあって、なにに喜びを感じ、何に苦痛を感じるかがだいぶわかってきて、いまは結構ハッピーです。

また、自分が直接触れ合う自分の家族についても、そこそこリーダー的な役割をこなして、平和でハッピーな家族だと思っています。

ただ、これがこと自分の心、自分の家族の外のことになると、自分でもうっとりするほど無力です。そういう地位にもないし…

私が望んでいるのは、熱狂的に支持される人気だけで、無茶なことをやるリーダーとかではなく、いまのいろいろな問題を”原理的”に解決する実行力とヴィジョンをもった人です。

「なるほど、そういうふうにやれば、世の中が平和にならざるを得ないですね」

とみんなが合理的に判断できるヴィジョンとそれを実行する胆力…。

たとえば、核兵器の放棄なんてのが良心的な人たちは好きですが、はたして、”武”を放棄するということがほんとに長い目で見た平和に結びつくのかとか(映画エイリアンみたいな化け物が地球に降ってきたときどうしますかとか…)

いまビデオ・ゲームのウィッチャー3をまたプレイしているんですが、最後にシリが女帝になることを選び、

「いくらウィッチャーとして優秀になっても、世界をかえられない…」

と自分の養父兼ウィッチャーの師匠である主人公ゲラルトに伝える場面は忘れられません。

人にはそれぞれ適性とか与えられた立場とかいろいろあって、私は残念ながら自分の心や家族をハッピーにするぐらいが限界なのかなと、強大な自我を抱えた私としてはすこし寂しい気分と同時にそれでいいじゃないかという満足感もあります。

ノアだけはガチ

いちじ、プロレスにはブックという筋書きがあってということがおおやけになりはじめたころ、ノアというプロレス団体の熱心なファンが某巨大掲示板で、「ノアだけはガチ」という主張をしてらっしゃったと聞いたことがあります。

その感じで、いち釈迦ファンとして、私は「釈迦はガチ」という主張をしたいです。少なくとも第三者が観測しうる限りにおいては、人々の心にある「聖者」の概念を体現しているように感じられたのではないでしょうか。

ある種、認めざるをえない言動をしたので千年、二千年と残ったのではないでしょうか。

ただ残念なのは、「聖者」はまがいものも数多くいるわけで、私の友人なんかも「全員がまがいもの」と思っているところですね。

自灯明・法灯明

釈迦は最後の旅路の途中で入滅するにさいし、そばに仕えたアーナンダに自灯明・法灯明の教えを残しました。

法(ダルマ)とは私なりの理解では、この世を統べる法則や道理といったところでしょう。こうすればこうなるみたいなのです。これには当然、物のことわりである物理法則、心の動きについての心理学的法則、人との関係性の社会学的法則なんかも含まれるはずです。

で、自灯明を言ったところがさすが釈尊といわざるを得ないのですが、自己(煩悩をコントロールした末にでてくる智慧による自己)をよりどころにせよといっているわけです。自ら考え・感じることを放棄して盲目的に何かに従うことを暗にいましめています。

釈尊は「俺の言ったことを守らないと、ものっすごい天罰でお前を滅ぼす」みたいな脅迫的言辞はいっさい弄せず、ただ、「そういう心持ちで動けば、そういう結果になってあんたは苦しむだろうな」みたいに諭すだけですね。

まぁ、私も釈尊の教えを自分なりに参考にさせてもらって、自分で若いころから気が付いていた「俺は自分の我の強さで死ぬことになる」という思いからいまのところ逃れて生き延びてます。

空にして無相

財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。
──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

ダンマパダだと思いますが、”空にして無相”の部分が私の中二スピリッツにビビッときますね~。

私は仏教的なものの見方を大いに参考にさせてもらっていますが、たぶん、一生かかっても空にして無相という心境にはいかないとおもいます。私の英語がたぶんネイティブ・スピーカーみたいにならないのと同じなんでしょうけど、いや、私なりの”決意”をすれば生きるか死ぬかのところまで突き詰めるでしょうけど、そこまでは正直しんどいなというのが本音です。

あと最近は老荘思想なんかもつまみ食いしていますが、”遊”の概念を内包しているということで、これはこれで私好みだなと思っています。

既存の宗教は金の流れが逆

タイトルが、私が昔から感じていたことをすべて言っていますが…

まず、何かの宗教の信者になるってことはなんらかの拠り所を求めてきているわけです。ある種の弱者です。

で、教祖目線でみたとき、自分を慕ってきた弱者からさらに金を巻き上げるってどういう了見してんだろうな…とずっと思っていました。

そういう意味では、お笑い芸人のビートたけしさんの”たけし軍団”とかは、”ビートたけし教”として、私がイメージするあるべき宗教集団の形になっているなぁと思っていました。

つまり食い詰めた信者がいたら親分(教祖)が食わせるというのが王道なんじゃないかと…

小説家の武者小路実篤さんの新しき村なんかも、武者小路さんがそうとう金をぶっこんでいたと聞いたことがあります。

2, 4, 8, 16,… の倍数判定法

高校の数学Aの教科書に、ある自然数Nが2の倍数かどうかを判定する方法が説明されていて、

Nの一の位の数(0~9)をaとすると、適切に負数でない整数kを選べば、

N=10k + a

と表現できて10kは必ず2の倍数なので、一の位の数のaが2の倍数かどうかだけ見ればNが2の倍数かどうかを判定できるというものが説明されています。

で、ある自然数Nが4の倍数かどうかを判定するときは、おなじような方法で、

N=100k + a

として、下2桁aが4の倍数かを調べればよいとされています。

で、練習問題に8の倍数を判定する方法を答えよとなっているわけです。

教科書にこういう感じで問題がでてくるときは、直前の方法を使ってその延長線上で解けることがおおいです。

で、結論からいうと1000は8の倍数なので、8の場合は下3桁を調べればよいわけです。

で、ちょっとおもしろいなと思ってその仕組みみたいなのを考えてみました。

8=2×2×2

これが、10とか100とか1000とかの約数ならおいしいわけですね。

で、2というのは5を掛けると10になってくれるので、

8×5×5×5=(2×5)×(2×5)×(2×5)=10×10×10=1000

この感じで、2^n は10^nの約数なので、ある自然数Nが2^nの倍数かどうかの判断は、下n桁だけ見ればよいとなります。

数学に詳しい方ならわらっちゃうほど簡単なことなんでしょうけど、私はこれを”発見”してすこしうれしかったです。

プログラミングでアルゴリズムに落とし込むとしたら、もっと効率的なのがあるのだなとちょっとウェブをサーチして思いました。

倍数と約数

倍数と約数は自然数(1, 2, 3, …)で考えると自明といえるほどわかりやすい概念ですが、高校数学では整数(…, -2, -1, 0, 1, 2, …)に拡張して考えます。

で、私もいろいろ0がからむときとか混乱が生じたんですが、最終的に、

a=kb

という等式に、適切な整数をa, k, bに入れてそれが成立すれば、aはbの倍数、bはaの約数と理解すればよいというところにたどり着きました。(教科書にはなから書いてあるのですが理解が追い付かなくて(笑))

この考え方からすると、a=0, k=0, b=任意の整数とすると、0はすべての整数の倍数といえることなど興味深いことがわかります。

で、a=0, b=0とすると、kが何であっても等式は成立するので0は0の約数と考えられるということになります。約数というとなんか割り算的な雰囲気があるので、0で割るという数学のタブーを犯している感じがあって、wikipediaによるとたしかに0の約数に0を含める考え方と除外する考え方があるようです。

いや~、数学は面白いな…という感覚を味わっています。受験と関係なく数学に出会いたかった…

”わからない”でこらえる

007にも出演したことがあった往年の大俳優である丹波哲郎さんは、

丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる“という映画を世に問うたことがありました。

丹波さんがどこまで本気だったのか私はわからないですが、興行的においしいからネタとしてやっただけとしたって、その後、そうとうキワモノ的な目で見られることになる覚悟はあったと思います。

霊界、宇宙人が乗ってる円盤、超能力などなど…

私の根本的な疑問はなぜその手の確証がないことを”信じられる”のかという点です。

大学時代にいちおう工学部だったので東大の偉い先生の科学論の単位を取ったことがあり、西洋科学も最終的には”ある仮説を「信じて」それを立証するべく研究をつづける(たとえ少々の反証的なものがあったとしても)”ということに最先端ではなるようですが、研究者たちは”これが答えです”とは間違っても断言しないと思います。こうなのではないかと思って研究していますとしか言わないはずです。

死んだらどうなる - 私にはわからないとしか言えないですね。

で、高校時代の友人とかいろいろな知人とか私が思い出しても少なからずこの”わからない”という状態に耐えられない人がある程度の割合でいます。

で、そういう人たちは”断言してくれるリーダー”の元に集まっていくんですね…

とはいえ、そういう未知とされていることをエンターテイメントとしてこうなんじゃないか、ああなんじゃないかと楽しむのは私は好きです。

ちなみに釈迦は世界3大宗教である仏教の開祖としてはおどろくほど、その手のことを言いませんでした。だれかが、死んだらどうなるんですかと質問しても、答えません。無記です。ここらへんの節度が私が釈迦に感銘を受けているところです。