ヨガの聖者がなぜ最終的に山にこもることになるか

これはポエムです。また科学用語も私がフワッと理解しているフィーリングで書いています。

まず、複雑系という概念があります。

で、複雑系は初期値への鋭敏さや、”複雑”なだけあって、細部が異様に相互に結びついているので、

”ここに問題があるな、この部分’だけ’を修正しよう”

こういう態度は、複雑系を扱うときは必ず予期せぬ副作用が他で表れて、かえって問題が拡大したり、もっと大きな別の問題が発生したりします。

ただ、観察者にとって、ある複雑系が、全体としてまずまずの良い状態とか、悪い状態とかは主観的ではありますがあるはずです。

私がヨガをやってて、もっていた疑問のひとつは、

”聖者と言われている人が複数いた。なぜ聖者は社会に手を突っ込んで’良く’しなかったのだろうか…”

今の私の理解では、

”社会に手を突っ込んで’悪い部分だけを改善する’というのは至難の業”

ということを理解し、へたにいじくらないのも聖者の態度であると自重していたのだろうと、結果として山にこもることになったのかなと思っています。




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