善悪はファッション:だが善をもとめずにはいられない

いつごろからか、善悪の判断って時代によってもかなりちがってくるし、文化や状況によっても色々ちがいがあるなと感じていました。

結論から言うと、宇宙全部に共通する善悪なんてないのだろうな… 今ではそう思っています。生物としての善があるとするなら個体もしくは種族の繁栄につながるようなことを”善”ととらえざるを得ないでしょうと思っています。

たとえば、(奴隷制度が普通だった時代に)「万学の祖」であるアリストテレスは奴隷制度擁護論を書いています。また、ニーチェの「善悪の彼岸」なんてのもあります。


Wikipedia “善悪の彼岸“より

過去の哲学者たちが道徳性について考察するときに、批判的感覚が欠けていた疑いがあることと、とりわけキリスト教の諸前提を盲目的に受け入れていたことを、ニーチェはこの『善悪の彼岸』で非難している。


私:”この感じはファッション(服装)に似ているな…”

(ファッションも時代や文化によって左右されます。)

たとえば、私がいま日本において公道でいきなり知らない人に殴り掛かれば警察のお世話になりますし、これはどう考えても悪でしょう。

同様に、究極のファッションとして全裸で公道を歩けばやっぱり警察のお世話になります。全裸はとてもイケてるファッションとは言えないでしょう。


しかし、こんな単純な暴力の善悪でさえ色々な状況しだいであって、たとえば戦場では敵兵を殴るぐらいじゃすまなくて、殺しに行かなければこちらがやられてしまいます。

あるインターネット動画で、中東に派遣された米兵とおもわれる人が、かわいい子犬を笑いながら崖下へ投げ捨てていました。これはインターネットで炎上して当人もかなり責められたのではないでしょうか。

ただ、戦場で子犬の命を大切に思うような気持ちをキープしたまま、自分と同類の人間を殺せるでしょうか。自分と同類の人の命も軽く思えるようないわゆる”戦場ハイ”とでも言える心理状態でなければ、おそらく人格が保てないのではなかろうかと思います。

戦場における善悪(ファッション)はおのずと日常と違わざるを得ない。


ある状況・文化・時代でいわゆる悪とされていることをやればいろいろなペナルティがあるでしょう。

同様に、その環境などで受け入れられないファッションをするのはやはりいろいろな問題が起きたり不愉快な思いをすることになるのではないでしょうか。

先進国なんかでごく普通に育てば、だいたいの人の心には”良心”や”罪悪感”というものがインストールされるはずです(ファッション・センスですね)。それ以外のたとえば戦乱に苦しむ国でも我々には受け入れがたいかもしれない”良心”や”罪悪感”が育つはずです。(例えば子供はできるだけたくさんの金品を盗んで親に渡すのが親孝行(善)と考えるとか)

このいろいろな種類・形があるその人なりの”良心”に反することをしすぎると人格が荒れて結果として自分が内的、外的に種々のダメージをうけるわけです。

ここでいう良心ももちろんファッション・センスの良さ・好みでしかありえず、部外者から見ると奇妙に感じられるものかもしれません。ただ本人にとってはやはり大事です。むりにヘンテコリンなファッションをすれば自分の心にストレスがかかるのと一緒で、自分の人格に組み込まれた良心に気を使わざるを得ない。


いまから千年後にタイムスリップして、何気なしにゴキブリをスリッパで叩き潰したとします。千年後の未来では目に見える生命を極力尊重するという文化だったとしたら、それを目撃した未来人たちはあまりのショッキングなできごとに気絶するかもしれません。場合によっては警察に拘束されたり。


じゃ、良心や罪悪感が人格にインストールされていない人(ファッション・センスの好悪がない人)っているのかといえば、最近流行りのサイコパスの人たちがそうなのかなと思います。

善(良いファッション)を求めるのは自分の心と身体の平和のためだろうなということです。

雑然と頭に浮かんだことを書いたので、また整理・加筆します。



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