勉強にできるできないはなく好き嫌いがあるだけ

走ることに例えると、もちろん誰でもオリンピックの短距離選手になれるわけではありません。でも、走ることが好きで練習を重ねれば、その人個人レベルでは走るのが速くならざるを得ないんですね。

何事にも向き不向きはあります。でも、少なくとも小学校から高校レベルまでの勉強一般は、誰でも脳の機能的には理解できる範囲です。でなければ何らかの障害としてそもそも普通の学校に入学できていないはずなんですね。

ある事柄を好きになれば、当然、練習をするでしょうし、上手くなろうとするはずです、そうすると何もしない状態より結果として上手くならないではいられないのですね。

ここら辺をよく理解できていないお子さんが多くて、ひどい例では親からお前はバカだと言われていてそれを信じそうになっていたりします。

面白いと思ってやる事がどれだけすごいことを引き起こすかは、テレビゲームに熱中している子供たちを見るとわかります。
好きなゲームがあると、そのゲームについて異常に詳しくまた上手になっているんですね。

学問の王道はそれを好きになることだと思います。

英語の音≠日本語のカタカナ音

最初の最初はカタカナから入って英語の音を覚えるのはありだとおもいます。

それでも、できるだけ音を写して覚えたほうが後々得しますね。

例えば、watchはウォッチではなく、まだワッチのがましです。

私が小学生にtriangleの発音をしてあげたとき、その子は自分でノートに”トライアンゴー”と書いていました。日本語になった英語として”トライアングル”があるので悩ましいところですが、英語として頭に定着させるときは”トライアンゴー”のほうがましかもしれません。

最終的には、英語の音は英語の音として、「あ、th の音だ」などと認識できるようにします。

また、スペルと音の関係を説明するフォニクスというものがあり(book, took などのooは”ウ”であるなど)、英米の小学生たちはこれを国語でならいます。

パキラの新芽

春に向かって新芽がそだってきています。

ほんとうにパキラって育てるのが楽だなと思います。

サボテンをいくつ犠牲にしたことか。たぶん、「世話するぞ!」的な態度が余計なお世話なんでしょうね(笑)

母が園芸一般の歴が長くてプチトマトなんかも育てるのが上手なんですが、トマトは、もともと南米の高地植物ですから、水をやりすぎるといい実ができないんですよね、友人なんかによくそうアドバイスしていると聴きました。

デュポン・ライン1s

友人からもらった金のライターですね。今は作られていないデュポン・ライン1のスモールの s です。今のものより少し小型らしいですね。

金のライターとかブランドのライターとかっていうと、SF小説日本御三家の生き残り筒井康隆先生の奥さんとのエピソードが思い浮かびます。

たしか、結婚前、奥さんと初めて喫茶店かなんかで会ったとき、筒井さんがダンヒルかなんかのライターをパチッとテーブルに置いたのを見て奥さんは、たしか

「なんだこのライター、いけ好かない野郎だな」

みたいなことを思ったそうです(笑)。

私も用心しようと思います(笑)。

私の”NHKラジオ英会話”学習環境

遠山顕先生がご病気から回復された記念として、私のNHKラジオ英会話学習環境を紹介いたします。

NHKラジオ英会話は名前の通りラジオで放送があるのですが、はっきりいって時間を合わせて聴いたり、留守録するのは面倒なので私はかなり前にやめていました。

それではどうしていたかというとネット上のNHK語学サイトに一週間遅れでストリーミングが公開されているので、それをWinCapturestreamというフリーソフトウェアでダウンロードしていました。

で、これも著作権やらなんやらの問題があっておとりつぶしにされたので、今はだまってストリーミングを聞いています。

都合が悪くて聴き逃しがあっても以前ほど”俺ってすげーピンチ!”という感情はわかなくなりました。まぁ、遠山先生のおっしゃる、ゆったり樂習する態度が身についてきましたね。

で、番組後半にあるナチュラルスピードのスキット(会話)部分だけをMoo0ボイス録音器というフリーソフトウェアで切り出して録音しています。

毎日スキット部分を切り出してコレクションしています。数十年前のものはうっかり失くしてしまいましたが、大杉正明先生のスキットなんて2~3年分を暗記したりして自分でもよくやったものだと思います。大杉先生のスキットは1年を通して長い物語になっていてすごく楽しかったですね。

いまの遠山先生のスキットも役に立つ表現満載ですし、長くても一週間単位の物語ですので、かえって覚えるのに向いているかもしれません。あとたまにあるオーヘンリーや小泉八雲の短編小説の回なんかもおすすめですね。

スキットの本文はエディタで1つのファイルに書き足していってます。

こうすることで、「たしか “divulge”って少し前のスキットで使われていたような…」なんてときはエディタで検索してみると(インクリメンタルサーチができるものをおすすめします)確認できて、生きた会話文の中でのその単語の使われ方なんかもすぐにわかるんですね。

NHKラジオ英会話の薦め

NHKラジオ英会話のススメ(その2)

私が使っている英語辞書の紹介

コインの裏表はheads or tails

コインの表は heads といい、コインの裏は tails といいます。

で、両方とも不可算名詞(uncountables)です。

有名な、コントスして「表か裏か?」は、”Heads or tails?” となるわけです。

答えは ”Heads.” か “Tails.” となりますね。

 




道の人

色々な業界をここ数年でみてきたんですが、はっきり言って落胆しています。

まず、卑近な例をだしますと、おふくろが今日、近所の美容室でカットしてきたわけです。

横須賀の田舎のさらに大矢部という僻地でひっそりとやっている美容院です。ご近所さんです。その先生のカットが、おふくろがいろいろ縁あってずっと行っていた美容室の先生のカットより素人の私が見ても仕上がりが数段上なわけです。

おふくろが、いままでやっていただいていた先生は、業界で一応それなりの地位があってどこそこで今度は講習会をやるとか言っちゃっているわけです。

この手の、その業界で偉いことになっている先生がじっさい黙々と技を磨いているであろう無名の人よりその道で数段落ちるという残念な例をことごとく私がかかわった業界でここ数年みてきました。

で、それらの「偉い先生」に共通しているのが「技に語らせるのでなく、口で自分を売り込もうとする」ということです。 たとえば誰それの弟子とかそのたぐいです。

で、さらにいうと、自分の技はこれでいいのだろうかと常に疑ったりするある種のはにかみがないということです。

ただ、残念としかいいようがありません。

 




観葉植物パキラ

パキラはしばらく育てていますが、育てやすいですね。

適当に水をやったりしているだけですがよく育ちます。

私同様の初心者におすすめできます。

とは言うものの、強い日光にあてすぎて何枚か葉っぱが真っ白になったりいろいろなつらい目には合わせているんですが(笑)




人はなぜベジタリアンになろうとするのか

ヨガのティーチャーコースでならったベジタリアンになる理由とし記憶に残っているのは、

非暴力(アヒムサ)の観点からベジタリアンになる

これは私から見ると非常に珍妙な理屈に思えます。動物は非暴力的観点から食ってはいけなくて植物ならいいというのは、”お前が動物だから動物同士という身内喰いはなんとなく暴力とか思っているだけだろ”と思います。命という観点から動物と植物を区別する理性的な理由はみあたりません。ただ本能的に動物という広い意味での同族食いはなにかヤバイ気がするという感じでしょうか。 このあたり、植物の種はあれは胚珠が受精したものですからやはり命がかかわりますね。じゃあ、子房が変化した果実なら食べても非暴力なかんじも少しはします。仙人は果実だけ食べるなんて話も聞いたことがあります。それでも生きた細胞を食ってることはかわらんだろうという気がします。

 

人間の身体の機能的に歯は臼歯が多く、胃は酵素が肉向きのものが少なく、腸は肉食獣に比べれば長い

まず、大前提として人間って類人猿(チンパンジーは雑食)と共通の祖先をもちますよね?で、原始人とかはたぶん雑食ですね?そりゃ肉しか食べない肉食獣と比べりゃ腸も長いでしょうし、犬歯の発達もそれほどしてないでしょうけど、永い雑食の歴史があるのに何をいまさらという感想を持ちます。

 

エネルギーの視点から太陽のエネルギーに近いところから食物をとる

それが何の意味を持つのでしょうか?宗教的には意味があるのかもしれません。

 




多肉植物メビナ

一時、お姉ちゃんからとかいっぱいサボテン類をもらって5鉢くらい育てていたんですが、数が多すぎて関心の対象を絞れなくなってしまって、ネグレクトみたいなことになって枯れそうになったので多くを私の園芸の師匠である母へと預けて、この多肉植物のメビナと木であるパキラだけを残しました。

多肉植物は育てるのが簡単であると言われているのですが、まず過干渉(水のやりすぎ)とか、葉っぱに水をかけて腐らせたり、いろいろ難しいと感じています。

植物をペットと呼ぶのは違和感を感じる人もいるでしょうが、私は毎日ちょっとは気にかけているのでやはりペットと呼びたいですね。

最近、また芽が出てきて育っている実感があります。

知識は生き物で世話をしないと枯れてしまう

まず、私の事例からお話しすると、数十年レベルで理科知識の手入れを怠ったために、

「湿度100%って水の中かな?」

というくらい忘れてしまいました。一度は理解したことがあるので理科の教科書を読めばすぐに思い出すのですが、ほったらかしで手入れをしないと、このレベルのことが起こるんですね。

なにしろ中学高校あたりの勉強内容を「やらされている仕事」という受け止め方をしていたのが失敗だったなと思います。特に中学は義務教育でせっかく国が教科書やらなんやら無料でサポートしてくれているのにもったいないことをしたと思っています。

私の友人のお父さんはある大きな会社の社長をやっておられた方ですが、大学は早稲田大学を卒業しておられるわけです。そうすると当然、入試を受けた時点で英語は仮定法などを含めて、かなりの読解力が一時的には身についていたはずですが、仕事を引退された後、最近興味を持って中学英語の教科書を読んでみたら、he, his, him, his レベルからもうすっかり忘れていたという事です。

また総理大臣が国会で「いいですか!私は立法府の長ですよ!」なんてことを言ってしまいますから、行政府の長ですら油断していると自分の職業分野でさえ知識がしおれてしまっているということが起こります。

また、学問の知識はつねに進歩しているので最新情報という栄養を与えてあげる必要もあります。聖徳太子が厩戸王 (うまやどのおう)としても教科書に記載されているなどですね。

数学は特異な学問で2000年以上前に証明された定理がくつがえるなんてことは歴史上いまだかつて起こったことがないですが、それでも、数学としてとらえられる領域がひろがったり、素因数分解が暗号技術に使われて非常にホットな領域になったり、日々進歩変化しているはずです。

そういうわけで、私は社会科などは中学レベルからもういちど教科書を買って勉強しようとしています。国語、数学、理科、社会、英語などの中学生レベルを本当に自分の身に引きつけた有機的知識としていつでも利用可能なツールとして身につけたならば、いまの一般社会ではかなりの”インテリ”として遇されると本気で思っています。




ヨガのポーズの一挙手一投足にこだわるのはバカ

まず、何のためにポーズをするのか考えてください。たぶん普通の感じとしてはリラックスするためでしょう。最終的には、Yogas Chitta Vritti Nirodha (ヨーガス・チッタ・ヴリッティ・ニローダ) のためなんです。

それをインストラクターが「はい、吸って~」とか言って、「もう吸えないよ」みたいな感じになっているのに、まだ息を吸おうとしたりして精神統一がくずれたらバカらしいですよ。

まぁ、なんとか筋はこうすると良く伸びるとかはあるんで、身体をぐにゃぐにゃにしたい人はそうすればいいと思います。私の思いつく限りでは、自慢する以外に通常の生活で身体が異常に柔らかいことに深い意味があるとは思えません。

で、Wikipediaが情報源なんで真偽のほどはわかりませんが、体の不自由な方たちがリハビリとしてヨガを体操としてやるなら、それは西洋の体操からたかだが数百年前に輸入されたものですからヨガって言ってもまぁ、西洋で発達したストレッチをやっているわけです。

異常に、このポーズのここは手が上を向いてないとダメとか、目くじら立てている人を私も目撃したことがありますが、今となっては、その人なりの「偉く思われたい」って願望の発露なんだろうなと思います。

ただ、「なんとなく面白いし、難しいポーズをするとみんなが感心してくれるからやる」って人を私は否定しません。でも、人格の高潔さとかとはまったく関係ないですけどね。

「キサマ、何様だ!」と言われたら

「このありさまです」としか言いようがないですね。

今まで、私なりに真剣に生きてきたつもりですが、気が付いてみればまさにこのありさまです。

ちまみにこのやりとりは私が敬愛するボクサーでのちに由利徹さんの弟子として芸人になったたこ八郎さんが喧嘩の際に言った名文句ですね。

横須賀のジーヴァンムクタ、横浜のいかがわしいところへ行く

いや~、女性はやっぱりすばらしい存在ですね。この世に存在してくれてありがとうという気持ちです。

 

オリンピックを控えていわゆる色街はおとりつぶし的な扱いになりがちなんでしょうけど、そんなに清潔にしていると、少しの毒で全滅しますよと思います。

 

I’m visiting Canada. と I’m going to visit Canada. の違い

両方とも「私はカナダに行きます」という意味です。

でも見た目が違うということは当然、意味も微妙なニュアンスの違いがあります。だって、じゃなきゃ違う言い方する意味がないですよね。

visit は”訪れる”です。で、どこかの国を”訪れる”ってことは、

・航空切符を用意して。

・職場から休みをもらって。

・現地でのホテルを予約して

・現地を訪れる。

などなどいろいろな行為がvisitには含まれているわけです。すなわち、I’m visiting Canada.のほうはvisitが進行形になっているだけに I’m going to visit Canada. に比べてもうすでに”訪れること(visit)”にまつわる行為が進行中であることを表しています。それにくらべると、I’m going to visit Canada. は、まだしていない準備などを含めた visit という行為をしようと、気持ちが向かっている途中であるというわけです。

こんな違いももちろん中学英語で勉強できるはずです。(まぁ、NHKラジオ英会話でもやります)

私の”NHKラジオ英会話”学習環境

金属結合

鉄や銅などの金属原子は常温では普通固体(例外は水銀)です。

この固体である金属の結合の仕方を金属結合というわけです。

イメージとしてこの固体内では、金属原子の陽子(+の電気を帯びている)が格子状に整然とならび、その格子の隙間を自由電子(-の電気を帯びている)が自由に行き来できるようになっています。

電子が自由に移動できるようになっていることが、金属は電気をよく通す理由です。

じゃ、なんでそんな格子状の構造が維持されているのかというと陽子(+)と電子(-)の間に働くクーロン力(静電気力、静電引力)によります。

この構造をあえて例えれば、陽子の玉が整然といっぱいならんでいるその接着剤として電子がすき間にいっぱいあるとイメージできます。

このイメージを元としてとして、金属の展性・延性(力が加わるとのびたり、ひろがったりする)が説明できます。

つまり、鉄の玉をすごい力で押しつぶすとぺちゃんこになりますが、このとき鉄陽子の格子構造はずれたりするはずですが、依然としてすき間に接着剤である電子があるので、割れたりせずに一つの固体のままなわけです。

私が書きたい小説

ダブルミーニングという手法があります。

読み手の読み方によって2通りの解釈が可能なものです。

私が書きたいのはパッと素直に読むと、非常な聖人的に解釈できる人が主人公の物語です。

しかし、とても注意深く読むと、その主人公がものすごいエゴイストなのではないかとも読めてくるものです。

ここらへんは評論家の呉智英さんも釈迦は非凡なエゴイストと指摘していますが、おもしろい人物が描けそうです。

付け加えると主人公本人も自分が良いことをやっているのか悪いことをやっているのか認識できていないところがミソです。

 




染色体・DNA・遺伝子

中学の理科で勉強する染色体・DNA・遺伝子の関係について簡単にまとめます。

本に例えるとわかりやすいと思います。

まず細胞が分裂するときに細胞内に神秘的に出現する物体が染色体です。これは本そのものに相当します。

で、染色体を構成する主な物質がDNA(デオキシリボ核酸)です。本でいうと材料となる紙やインクです。

で、染色体に記述されている遺伝情報が遺伝子です。本で言うと文章による内容(情報)ですね。

染色体はDNA(デオキシリボ核酸)から構成されており、そこにコード化されている情報が遺伝子であると言えます。

プラスチック(合成樹脂)

中学1年の理科で物質について勉強するのですが、その中でプラスチックについて言及されています。

まずプラスチック(plastic)という言葉は”成型できるもの”という意味です。

で、我々が一般常識として認識しているプラスチック(関西流にはプラッチック)は主に石油から作られる合成樹脂とほぼ同義です。

合成樹脂と対になる言葉として天然樹脂があります。

合成樹脂は天然樹脂に対するものとして出てきた言葉です。天然樹脂は字の通り木からとれる脂的なものです。この天然樹脂は水に溶けにくいとか、熱を加えて成型できるとかいわゆる”樹脂”としての性質をもっています。

合成樹脂は天然樹脂と似たこういう性質を持つために”合成樹脂”という言葉が使われだしたんですね。

合成樹脂には成分や分子構造による分類で、エステルやエステルの中に含まれるポリエチレンテレフタレートいわゆるペットボトルのPETなどがあります。

 




無限の可能性

よく、

「子供には無限の可能性がある」

なんてことを言う人がいます。おおむね私も賛成ですし、子供だけじゃなく私もこの歳になってもある種の万能感を持ち続けています。

でも、それ故に注意しなければいけないことは、「無限の可能性」が必ずしも良い方向への変化とは限らないことです。

善良だった子供が無限に悪くなっていくことも私はありえると思っています。それは不運とか周りの人たちとかいろいろな影響が重なって、どんなに素直でよい子だったとしても悪へと誘われる可能性がそれこそ無限にあると思っています。