比についての新しい理解

Wikipediaの比についてのエントリを読んでいて、そういわれればそうだなと思ったのですが、自分のテレビが横と縦の比率が4:3だとします。

この場合、テレビの横の長さを4で割った数=テレビの縦の長さを3で割った数なんですね。

たしかに、横と縦が4:3ということは、実際の横の長さは4k、縦の長さは3kと表せることを意味します(kには適切な数が入ります)。4:3=4k:3k というわけで、横を4で割るとkが答え。縦を3で割るとkがこたえ、したがってk=kとなり等しくなるわけですね。

比をこういう理解の仕方をしたことがなかったので、何か新鮮です。

 



暴力について

私の体、私の心、私の財産、私の名声、私の地位、私の…

という認識を私たちが持っていて、それらを傷つけられちゃかなわないと思っている限り、「私」と対立関係にある主体がパワー(広い意味での暴力)を行使してそれを破壊もしくは毀損しようとする行為は絶対になくならないと思います。なぜなら”攻撃”として圧倒的に有効だからです。

私は、中学生の頃を最後に、30年以上、人を殴ったり蹴ったりしていないんですが、それはほかの国と比べて日本が驚くほど平和とか、私の周りが良い人ばかりだったとか色々な理由があるんでしょうが、やはり、(自分の身を守るためとか)最終手段としては物理的な力の行使はありだろうなぁと思っています。

でも、暴力関係で萎える光景は、国会で議員の先生たちが強行採決だかなんだかを阻止しようとして、議長のところへ詰めかけて、誰それがグーパンチしたとかなんとかニュースで流れたときですね。けっきょく物理的な力を行使するんじゃねぇかと、最終的には猿の殴り合いと変わんねぇじゃねぇかと萎えます。

 




アメコミ・ヒーローもの

最初に断っておくと、アメリカンコミックのヒーローもの、たとえばスーパーマンから始まってバットマンとか映画は大いに楽しんでいます。でも、主人公たちの行動で今一つ理解不能というか、あまりにもアメリカ的でわからないんだろうなというものがあります。

1:あ、俺には特殊能力(財力)がある。 (これは設定なのでまぁ、しょうがないです。)

2:これを世のため人のために役立てよう。 (まぁ、わかります。)

3:それには、とびっきり派手な衣装が必要だ。 (なんでだよwwww)

いや、馬鹿にしているわけじゃないんですが、真剣に、なぜスーパーマンがあんなチンドン屋みたいな恰好をしようと決意したのかまったく理解不能です。私だったら機能性を考えて、それっぽい戦闘服チックな服装にとどめておく気がするし、あんな恰好をしようとはまったく思いつかないと思います。




パンチラ

パンチラという単語が存在することから見ても、世の中の特に若い男性はパンチラに何らかの性的な魅力を感じる人が多いのでしょう。もう思い出せませんが、私も若いころは街角でパンチラを見たら心が躍ったのかもしれません。

正直に言うと、もうパンチラの何がいいのかわからなくなってしまいました。

駅の階段なんかで、女子高生が前を登っていて、何の気なしにパンチラが目に入ることもたまにありますが、快感も不快感も感じません。単にあんなに極端に短いスカートにしているんだから本人も見えたってかまわないって料簡なんだろうなぁなんて思いながら、ノゾキと間違われちゃかなわないんで目をそらすだけです。

たとえば、私の友人のそのまた知人は、美少女フィギュア(美少女をかたどった人形ですね)に凝っていて、その友人を前にして、

「この角度からのパンチラがいちばん良い」

なんてことを口走ることがあったそうです。

歳を重ねるとたぶん若いころにあったであろう感覚がだんだんなくなってきているのに気が付きます。良くも悪くも人間的に枯れてきているんでしょうが、すこし寂しい気もします。

トランプさんはパンチラで心が躍るのか興味があります。

そんな私でも、セクシーダンスはセクシーだと感じます。

私が嫉妬を感じる人

自分と他人を比べなくなってから久しいですが、そんな私でもときどきヒリリとした嫉妬を感じることがあります。

たとえば、ネットでSF映画「メッセージ」の監修スティーブン・ウルフラムさんが担当したなんていう記事を読むと、ああ、世の中で、この人のような立ち位置にたぶん若いころの俺はなりたかったのだろうなと思います。

自分の書いた数式処理ソフトの会社を持ち、理論物理学を修め、ちょろっと映画の科学について監修するなんてカッコイイなぁと思います。

では、なぜ私がウルフラムさんのようになれなかったのかといえば単純に地頭の良さがたりなかったのだろうと思います。まさに、頭の良さに格の違いを感じます。

私はウルフラムさんとは面識はないですが、20~30年前からネットを通じて活躍は知っていました。数式処理ソフトのMathematicaをひっさげてウルフラム・リサーチを立ち上げたと知ったときは、RMSも数式処理ソフトを書いてみたいって言ってたから、すごい人は数式処理ソフトを書くのかなぁなんてぼんやり思っていました。その頃の私はコンパイラを書いてみたいと思っていたころですね。

で、私は大病をへて、「なしとげない人」となってしまったわけですが、まぁ、それは信長じゃないですが、是非もなしといった感慨があります。




ヨガの難しいポーズをできるようになって偉くなろうとしている人へ

偉くならないですよ。

ヨガのインストラクターとかでヨガを金にしようとか、人からスゴイって言われようとするのが目的ならその目的は達成できるでしょうけど、それでヨガ的に偉くなるってことはありえません。

ポーズができるから偉いってことなら、特異体質で関節が異常に柔らかい人なんかはどんなポーズでもできるでしょうが、ヨガ的に偉いわけではないのは自明のことです。

ハタヨガでも理論面をヨーガスートラに頼っている限り、ヨーガスートラが規定する心の余計な作用を止滅することができてはじめてヨガ的に偉いといえます。

でも、心の作用を止滅できる、だから俺は偉いんだと思っているうちは、偉くないです。

偉い人の特徴は、自分がまったく偉いと思っていないところにあるからです。

 




仏教者の覚悟


「比丘たちよ、また、もし、凶悪な盗賊たちが、両側に柄のあるのこぎりで手足を切断しようとします。そのときでさえも、心を汚すものであるならば、彼は、私の教えの実践者ではありません。

比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。すなわち、-私たちの心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私たちは発さないのだ。また、こころ優しい者として、 慈しみの心の者として、 怒りのない者として、私たちは生きるのだ―と。 また、-その人とその対象に対しても、 すべての生命に対しても、 増大した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきます―と。 比丘たちよ、 まさしくこのように、 あなたたちは戒めねばなりません。比丘たちよ、そして、あなたたちは、この、のこぎりのたとえの教戒を、つねに思い出すのであれば、比丘たちよ、あなたたちは、 耐え忍ぶことのできない、微細もしくは粗大な、言葉を見出せますか」

「尊師、 見出せません」

「比丘たちよ、 それ故に、この、ノコギリのたとえの教戒を、つねに思い出しなさい。 それは、長きにわたり、あなたたちの利益のため、 安楽のためになるでしょう」 と。

――これが、 世尊の話されたことです。 感動したその比丘たちは、世尊の話されたことを歓喜したのである。


ここで注意が必要なのは、凶悪な盗賊に手足をノコギリで切られているような状況でさえ、怒りを我慢するのではなく、そもそも怒りが発生しないように心をトレーニングせよと釈迦が言っていることです。

やせ我慢はいずれ限界がきます。でも、そもそも怒りが発生しないのなら我慢もする必要がないのです。

例えば、関節が外れて、お医者さんに行って、ちょっと痛いですよと言われて、関節を入れ直してもらう時、激痛を感じても医者にこのヤロウと怒りを感じる人はあまりいないですよね。つまり、痛みは必ずしも怒りと結びついているわけではないのです。




人の言葉を字面通り受け取る癖

たとえば、妙齢の女性と二人だけになって、いい雰囲気になったとします。

そこでキスしようとしてなんとなく女性の耳元で、

「キスするよ」

なんて言ったとします。で、彼女が

「イヤ」

といったとします。冷静に理性で状況判断して100%これは「Yes」の意味だと万人がわかる場面だとします。

若いころの私は、

「ああ、”イヤ”と言っているから、キスしちゃいけないんだな」

と本心から思ってしまう癖がありました。ある種の障害もしくは端的に言ってバカだったんですね。

飲み屋のママに、

「あんたは言葉に引きずられるね」

と指摘されたこともありました。今は色々あって字面に引きずられそうになっても補正がすこしかけられるようになりました。

議論は勝つもの?

「あいつを論破してやった!」

とか、

「はい、論破」

などという物言いを見聞きするたびに、私は違和感を感じます。

私の中では議論とはお互いの妥協点をさぐったり、お互いの持っている情報を交換して話題に対する新たな理解をお互いに探っていくとかそういう感じのモノとして思っています。

たとえば、円柱を上から見たAさんが、

「この物体は球である!」

そこへ、円柱を横から見たBさんが、

「この物体は直方体である!」

と主張したとします、このときお互いが”どちらかが正しく、したがってどちらかが勝つはず”という態度でいたら、いつまでも真実である”実はその物体は円柱である”にたどり着けないのではないかと思うのです。

「議論に勝ってやろう」

という料簡はすごくよくないのではないのかなぁと感じています。

英語はそのうち漢字のようなスキルになる

昭和44年生まれ(1969年)の私がまだ幼かったころは、

「あの人は漢字をいっぱい知っているから学がある」

というようなことが、ほんとうにごく普通のこととして庶民の間で言われていました。

いわゆるインテリかどうかの尺度のひとつとして漢字をどれだけ読み書きできるかで測っていたわけです。

でも今は、

「漢字を多く知ってるって?それが何の役に立つんだい?」

という空気にコンピュータのおかげで変わっているように感じます。

で、なんとなく今の時代の空気感からして、

「あの人は英語ができるから学がある」

的な雰囲気を感じます。しかし英語ができるというスキルも、10年、20年単位のスパンで考えると今の漢字と同じ扱いのスキルになるだろうと感じています。

自動翻訳機がそのカギですね。

たとえば、私に娘がいるとして娘が将来、同時通訳者になりたいと言い出したら、よくそこらへんのことを言い聞かせて、メインとなるスキルを別のものにして+αのスキルとして英語を勉強するようにアドバイスします。

まぁ、漢字を勉強したって尊敬されないんだろうなぁと思いながら、私は漢字が好きなので漢字学習アプリで勉強しているんですが、これは趣味でしょうね。




”ウンコ”を”おウンコ様”といったら臭くなくなるか?

言葉狩りなんていうものがときどき話題になりますが、ある言葉がネガティブな意味をもつからといってその言葉を別の言葉に取り換えたって、そのネガティブな意味の発生源である実態や実状などの状況を変えなければまったく事態は改善されず、新たな言葉がそのうち「差別的な言葉」として認識されるようになるだけだろうと思います。

 




あなたが強く思っていることの、反対意見で良い主張は何ですか?

私が強く思っているのは「他者を虐げない」ですが、これについての良い反対意見は、

「他者を虐げることによってパワー(金がもうかる・争いに勝てるなどなど)を得ることができる」

ですね。

一例ですが、日本でよくある光景で、中学あたりの部活の先生がなんでそれほどまで生徒に理不尽に厳しく辛くあたるのかという場面をよく見聞きします。しまつが悪いのが生徒は反抗せずに一心不乱にその先生を神様かなんかのように思って一生懸命耐えたり努力したりして大会で優勝したりすることがよくあるんですね。

これはただの一例であって、ブラック企業の創業者なんかもそうでしょうし、「他者を虐げることにより成功する例」は山ほどあります。

私としては残念です。

すべてのクジは当たるか外れるかの1/2の確率

という主張に対する中学数学からの反論は、

確率の分母がこの場合2ですが、これは起こり得る結果の総数を表しています。さらに、気の遠くなるほどの回数クジを引いた時に、分母が表す2つの場合のそれぞれ、つまり当たる場合と外れる場合ですが、それらの割合が”同様に確からしい”ことが求められます。

例えば、サイコロを1つ振って、1が出れば当たりとすると、何度もサイコロを振った時に、1が出て当たる場合と、2〜6が出て外れる場合が、本当に同様に確かなのかが問われます。で、当然、同様に確かではないことが実験をすればわかります。

サイコロの場合、たくさん振ってみると1〜6のそれぞれの目が出る割合が同様に確かだと言えるので、このクジの当たる確率は1/6となるわけです。