私なりの数学の思い出し方

大学では電気工学を専攻していたので、マクスウェルの方程式 とか、偏微分方程式とかフーリエ変換とかテストに通るほどには理解していたはずなのですが、ぶっちゃけ、全部忘れてしまいました(笑)

私なりに中学数学からコツコツ思い出しています。

たとえば、整数は、整数環 という面白いものをウィキペディアと青空学園数学科 で発見しました。

いまは、高校数学を思い出しているところです。

忘れているといったって、脳みそに一度、概念が作ってあるので、目標は以前よりさらに深く理解することです。

で、当然、定理は証明がすぐに頭に浮かぶようにします。

高校数学が一応完成したら、高校物理にすすんで、いずれは、相対性理論もひとにわかりやすく説明できるくらいには理解したいです。あと量子力学とか。

人に「相対性理論においては…」とか説明できると、かっこいいですからね(おくれてかかった中二病ですね)

中二病ついでにいうと、量子力学も大学で単位取った記憶がありますが、いっさい覚えていません。量子力学は理系のロマンだなぁと思っています。

でも、本当は、世界史などの社会科学系の学問も中学レベルでいいので、思い出したいです。まぁ、一応、痕跡が脳に残ってますが。

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ボサノバ

自分の部屋でまったりしているときに、YouTubeでゆったりした音楽を流し、画面に目を向ければイイ感じの女性が見られる…という動画を探していたんですが、やっと見つけました。

長時間あるし、有名な曲のカバーなのもいいし、最近、画面を右クリックするとループ再生を指定できるようになったのも良いです。

私は落ち着きがないので、あまり長いあいだまったりすることはないですが(笑)




宗教は広めるものじゃない

宗教を広めようとすると、数々の不都合や残念なことが多く起こります。

それは理性のある人にならほぼ納得していただけると思います。

宗教は各個人が自分の中に見出すものだと思います。

頭が整理できたら加筆します。




映画:スタンドバイミー

たぶん、子供のころの私は悪い子だったでしょう。私だけじゃなく、イケてる子供はみんな悪かったです。仲間と共にここでは書けない数々の悪行をしでかしたり、冒険をしました。

「あの沼は底なし沼なのでザリガニを取りに行ってはいけません」

と校長先生が朝礼で言えば、なにがなんでも行かなければならなかったのです。私の仲間ではないですが、死人もでました。

「悪いことをやるやつほど偉い」という宗教にみんなハマっていたと思います。

……なぜなのか(笑) 死人もでてるし、笑い事じゃないんですが、わかりません。そんなものでした。




私の信仰

ヨガのTTC中に大きな心的変化を経験し、それがその後、西洋的理性により、また揺り戻しが起こり、最近、ヨガの寺崎シータ由美子先生との会話で、また、自分の中に、たぶん、宗教的な信仰があると気が付きました。

端的に言うと、私は、この世を統べるダルマ(法)[わたしなりの言葉では、物事の道理]があると、考え、感じ、また、信じています。

釈迦が入滅するとき、師匠が死んだら何を頼って生きていけばいいのかと嘆く弟子のアーナンダに、「自分を拠り所にし、また、ダルマ(法)をよりどころとせよ。おこたりなく励むように」と伝えたと言います。

いわゆる、自灯明、法灯明です。

私は、ダルマは「ある」とたぶん、考えているし、感じています。
自分の中に備わっているダルマに気づいて、理解し腑に落ちることこそ、私の信仰の達成だと考えています。

ヨガのレッスン後に、真理先生に、まるで他人事のように、「ヨガってすごいですね~」と感想をいったら、「それ以上言ったら、怒りますよ(笑)」と怒られました。精進します。




強大な自我との闘い

私のこれまでの人生は、己の中にある強大な自我との闘いだったと思います。

なぜ、これほどまでに、自我が肥大してしまったか、その理由の一つは、普通の人が四苦八苦するようなことが、私は普通にしていればできてしまうという点にあったと思います。

逆に、普通の人が苦も無くやっていることが、私にはできないこともあります。

なぜ、私が普通にしていればできることを、ほかの人ができないのか理解できないのです。

普通の人ができないことができるんだから、俺様は偉いんだと思ってしまう。

しかし、私は今、その行く末には、破滅しか感じません。

一度はその強大な自我のせいで文字通り死にかけました。

一度はその自我を殺そうとおもいました。

でも、どれもうまくいかない。

いまは、どうにか、折り合いをつけられる方法をさぐっています。




塾講師という仕事

今現在の日本で、塾講師として生活を立てていくのは非常に難しいでしょう。

大学生の間でも、あまり人気はないらしいです。

講師業一本でやっているらしい人も知ってますが楽じゃなさそうです。

今、私は、なんとか講師のプロフェッショナルになりたいと考えています。収入面は大切ですが、主に講師としての技を高めたいです。

講師業に私なりの手ごたえと面白味を感じています。

で、私が人と会った時に、塾講師だと宣言したときの、その人の反応をみるのが面白いです。あからさまに軽んじた顔をする人とか。

「こいつ、俺が10億資産もっているって言ったら、また、違った顔するんだろうな」とか。いや、10億も資産なんか持ってないですが(笑)

ほんと世の中くだらない価値基準で人を見下す人が多くて、怒りを通り越して、嗤っちゃいます。




挨拶はサバイバルツール

挨拶とは、おはようございますとかそんなののことです。

挨拶の大切さを身に染みて感じたのは、高校にいたあたりから親戚の電気工事会社のアルバイトをして、工事現場に出始めてからです。

まず、現場で、相手が「おはようございます」と言っているのに、それを返さないということはありえません。そういうことをするとどうなるかは、やってみればいいと思います。

そのころから、私の中で、「挨拶は世の中を渡っていく上での欠かせないサバイバルツール」ということは、自明のことになっていました。

そこでです。すこし前のできごとですが、ヨガの先生を自称しているある人が、初対面で私が「峯島雄治と申します。よろしくお願いいたします。」と頭をさげて、あいさつしたら、みごとに仏頂面でスルーしたときは、内心、違和感を感じました。

そのころの私は、怒りを心の違和感としか感じないようになっていました。

たぶん、20数年以上、激怒してだれかを怒鳴りつけるというようなことはなかったと思います。(母親とはしょっちゅう口喧嘩してますが)

ヨガとかそれ以前に、コイツ大人として成立してねぇだろというような感情を私はもったと推測します。

挨拶は気持ちよく大きな声でしたいものですね。




学歴

付き合いのある若い人で、やたら学歴つまり、どこの高校でたとか、どこの大学をでたとか、そういうことにこだわる人がいます。

そして、その人は、地元ではまぁ、トップの高校を出て、大学はいちおう名前をだせば、大勢の人が知っているところなわけです。

問題は、そういう学歴があるというただそれだけの事実で、自分が「偉い」と思っているところです。

「てめぇなんて、何にもエラクねぇよ。たまたま、勉強に適性があっただけだろ」

と思いっきり罵倒したいです。

その人は自分の現在置かれている状況が、自分の「偉さ」にふさわしくないと思って、煩悶しているわけです。

「こいつバカかな…」と思います。

世の中には、ハナクソをほじるのが異常にうまい人もいるでしょう、そして、それが社会的な評価が高ければ、みんなからチヤホヤされるでしょう。

学歴なんて、ハナクソほじるのがうまいのとたいして変わりません。

適性があるかないかだけです。

その人の現状が自分の納得のいく状況でないのも、大人の中では、そんな属性は一顧だにされないことに気が付いてなくて、小賢しい言動を振りまいているからだと思います。

まず、現在の自分が苦しいなら、そのすべての原因は自分の心と言動にあるということを、腹の底から理解しなければなりません。

基本ポーズ(パワンムクタアサナ)の重要性について

パワンムクタアサナ群は、ポーズよっては身体の不自由な方も含め、ほぼ誰にでもできる、基本的なヨガのポーズの集まりです。

私は、なぜかわからないですが、TTC(Teacher Training Course)を受け始めたころから、ずっと、これは重要なポーズ群だろうという直観がありました。それを言語化できなくて、なんで自分がそれらのポーズたちを重要だと思うのか不思議でした。

それを少し言語化できそうなので書きます。

パワンムクタアサナ群には、たとえば、首をゆっくり呼吸に合わせながらぐるぐる回すとか、呼吸に合わせながら足の指を閉じたり開いたりするというポーズたちがあります。本当に、これがヨガのポーズかよと思います。じっさい、ヨガスタジオに行き始めたときは、「ああ、これは”きちんとしたポーズ”前の単なる準備体操なんだな」と思っていました。
浅はかでしたね(笑)

私が、ヨガに求めるのはまず第一に心のリラックス効果です。

パワンムクタアサナ群の良い点の第一は、まず、ほぼ誰にでもできるという点、これは非常に強力な点です。だれにでもできるのに、習熟すればリラックス効果は他のポーズに引けを取らないくらい得られる。

ほんとうに、パワンムクタアサナ群を極めれば、わざわざ足を首の後ろに回したりするアクロバティックなポーズはリラックス効果を得るためなら必要ないと思います。

そして次は、足の指や、手の指を呼吸に合わせて開いたり閉じたりするだけのものも含まれるので、場所を取らない点。

ヨガの真理先生が、高度に練習を積んだヨギー(ヨガを実践する人)は、呼吸に合わせて、指の上げ下ろしだけで、ヨガのポーズとすることができる、つまり、深いリラックス効果を得ることができると言っていたのを思い出します。

ヨガで難しいポーズをできれば、それはそれでおもしろいし、人に見せれば感心してくれるので、私はこれからもいずれは難しいポーズにもチャレンジしたいですが、いまはとりあえず、パワンムクタアサナをある程度極めたいという欲望が非常に大きくなっています。

ヨガの文献で、読んだと思うのですが、「ヨガのポーズに優劣(できるから偉い)はない」そうです。ただ、効果の違いや難度の違いがあるだけだそうです。

パワンムクタアサナ群は、通称オレンジ本で学べます。

日本語訳ヨガ教則本:アサナ プラナヤマ ムドラ バンダ

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天命

まぁ、天からの命令でしょう。

最近、人の価値は、どれくらい天命をまっとうできたか、まっとうできつつあるかで測られるのではないかと感じています。

ここで、注意が必要なのは、いわゆる現世で悪とされることを行うような天命を受けてしまっている人たちも、明らかに一定割合で存在するだろうという推測が成り立つことです。

当然、悪を行えば、糾弾され非難され、殺されるかもしれません、悪名はどとろくでしょう。よりにもよって、なぜ悪を行うべく生まれてしまったのか、まさに神のみぞ知るです。

そういう意味で名前をだせば皆が皆、顔をしかめるような歴史上の悪人にも私は複雑な思いがあります。

私は、善と悪は、時代や環境など様々な要素で簡単に反転するものであると考えています。

では、天命に従うにはどうしたらいいかというと、私の感じたり考えたりしている限りでは、直観を信じること。

心を意識、無意識にわけると、とうぜん無意識のほうが膨大で、意識にのぼってこない膨大な演算処理が行われた結果、「直観」として、意識にこれが答えですと、脳みそが言うわけです。

意識の論理思考なんて小賢しいものとは比較にならない膨大な並列演算が無意識化で行われていると私は感じています。

そういう意味で、感じることの大切さを私はヨガで習いつつあります。

北斗の拳

最近、電子書籍でぽつぽつと北斗の拳を数十年ぶりに読んでいます。やっぱり名作だなと思います。

なんてったって、完全な悪人と完全な善人しかいない世界というのはわかりやすくていいです。

勧善懲悪です。

悪人はよせばいいのに、こちらが引くほどの悪をやります。

そんなことしたら、ブチ殺されても文句いえないだろと思っていると、案の定、ケンシロウに「あたぁ~!」とか、ぶちのめされて、ある者はみじめったらしく命乞いしたり、ある者はさらに卑怯な手であがいてから、最終的に成敗されます。

ボス級になると、そういう悪をやるに至った、「ストーリー」を持っているものが多いです。

 

秘孔というツボを突かれると、頭が炸裂したり、腕に力が入らなくなったりというギミックは天才的な発明だと思います。いわゆる理系的な思考では、とうてい思いつかないアイデアだと思います。

読んだことがない若い方たちにも、自信をもっておすすめします。

単純に、スッとします。

北斗の拳




チャクラ

ヨガスタジオに行き始めのころ、真理先生と生徒さんが、チャクラがどうしたこうしたと話しているのを聞いて、ぶっちゃけ、こいつらヤベーだろ、チャクラとかオカルトチックなこと話しちゃってるよと思いました。

最近までも、そんな感じの認識だったのですが、人体を複雑なシステムとしてとらえると、そこには、神経系や、血管、リンパ管、など情報や物質の伝達経路が複雑怪奇に入り乱れています。

信号やエネルギー、物質の複雑な経路がいろいろありすぎて、西洋科学的な分析的な理解をしようとしても、今はまだとらえ切れていない気がします。

そこで、チャクラ様の登場です。

ヨガ的なエネルギーとしてチャクラやナディを想定するのです。いわゆる抽象化して理解しやすくするのです。

で、チャクラなんですが、私は、正直、バカにしていたので、詳しく勉強していません(笑)

これから、勉強します。




師匠論

40過ぎまで、何事も師匠を決めずに独学でやってきた私ですが、今は、各分野で師匠と私が勝手に思っている人たちがいます。

ヨガのアサナは、Yoga Sala PREMAL の真理先生。
ヨガの教義は、シヴァナンダの寺崎シータ由美子先生。
合気道は、祥英会の鈴木南美雄先生。
英語は同僚でもある細野恂(ほその まこと)先生。
心の師匠は釈尊です。

釈迦以外は直接教えを受ける機会があります。

いままで、色々、見聞きして、「師匠と一度決めたら、師匠を変えることは一生無い」という物言いを知っています。理屈は私もわかりませんが、なんとなく、そりゃそうだろうと思います。

で、存命の師匠たちは当然、生身の人間である以上、私が、これはこの人の人間的な欠点だと思う点があるはずです。

でも一度、「この人を師匠にしよう」と決めたら、そんな欠点を目の前にして、ほいほい離れるようなら、そんなの師匠でもなんでもねぇだろ、と思います。

私の困ったところは、女の師匠なら、恋愛感情が湧いて、男の師匠なら、対抗意識が湧くことです。

私は心に、すっごいでかい俺様が住んでいるので、その俺様が暴れ始めると、男の師匠からは、一時的にすこし距離をとります。

恋心は、それなりの修行をしているので、殺そうと思えば殺せます。

では、弟子としての私の目標は何かというと、師匠を超えることです。なぜなら、そうしないと、師匠の技の発展継承ができないからです。




心と体は同格

昨日、四十肩で、左肩が動かなくなったので、久々にヨガのレッスンに行きました。

で、まだ、痛いですが、なんか調子がすこし良くなっているわけです。

こわばった心もこころなしか、柔らかくなった気がします。

あ、心と体は同格なんだというあたりまえのことが、ようやく身に染みてわかりました。

どちらか一方だけを、鍛えようとしてもダメで、心と体は両方鍛えるべきなんだと納得しました。

同格と、頭では分かっていたつもりですが、心は体よりも上だという無意識のうちの邪見があったように思います。




3カ月ぶりの酒

3カ月ぶりに、酒を飲んでます。なんとなく酒から遠ざかって、3カ月が過ぎました。

私は、体質的なものもあるようですが、酒が強いらしいです。

あの時、酒を飲んでいなければという失敗が人生で一度もないです。
(もちろん、超高級小奇麗な居酒屋で、トイレをカオス状態に陥れたり、修行中の粗相は人並みにあります)

正直、酒には人に言えない場面でそうとう助けられました。

いま、私が曲がりなりにも社会人として遅い出発をしだしているのも酒の効用です。

釈迦がなぜ、酒はやめとけと言ったのか、本人に聞いてみたいです。