ヨガとは2

ヨガとは、「楽に生きるためのツール」だと思います。

そして、ヨガは、何を食べ、どのように思考し、感じ、どのように身体を動かし、どのように呼吸したら楽に生きられるか、ヨガ行者が数千年レベルの経験(実験)で発見した方法論がつまっています。

ヨガは東洋の科学なので、経験(実験)を重視し、どうしてそのような結果が得られるのかという理屈は西洋科学に比べてすこし弱いです。

私はまだ少しヨガをかじった程度ですが、でも、ヨガが教えている原因と結果にはあきらかに因果関係があると自分の身体と心で感じているので、ヨガをいろいろな自分の行動や思考の規範にしつつあります。

仏教も心で何を思考し、どう感じれば楽に生きられるかを教えてくれますが、ヨガほど広範な指針はあたえてくれません。特に、仏教は心と身体の結びつきの扱いが弱いです。

仏教の教えている思考方法やものの感じ方をできるように自分の脳をトレーニングしようとしても、そういうふうに脳をスイッチを入れていく「最初の一歩」をどう踏み出すかが難しいです。その点、ヨガはまず、ポーズや呼吸法をすることによって、身体に働きかけて、心のスイッチを押す手助けをしてくれます。(身体と心は非常に強く結びついています)

私が仏教が「強い」と感じている理由は、仏教では、この世を「一切皆苦」(この世ではすべてが苦しみの元になりえる)との世界認識です。

つまり、どんなにめぐまれた境遇の人にでも、苦しみは必ず訪れるという認識、この基本認識こそ仏教の強みだと思います。そして苦をどうやって取り除いていくかという方法を仏教は教えてくれます。

卑近な例ですが、独身であまり金を持っていない私が「資産家の超絶美人」と結婚できるかもしれないという状況になったとして、「それは逆玉の輿でラッキー」と感じる人もいるかもしれませんが、多少、仏教、ヨガでトレーニングした今の私の脳には非常な苦労が待ち受けているとしか感じられません。 たぶん私は非常に用心深くなって、場合によってはその機会を見送ると思います。

気が向いたら加筆します。




ガンジーは一発芸

ガンジーがやった武に対する非暴力抵抗運動は、その後、世界中に広まって武に対する人気手段になったという話は聞いたことがありません。

やっぱりあれは、ガンジーだから出来た一発芸だと思います。

そのガンジーもたしか暗殺されたはずです。

つまりチョキに対するパーのように、基本、負けるわけです。

あれは、異常にかたいパーだったのです。

数学は抽象化の芸術

数学は抽象化の芸術だなぁと昔から感じておりました。

たとえば、自然数、1,2,3,4,,,,など数も抽象化です。

りんご1個とオレンジ1個があるところを、どちらも1という抽象的な概念を属性としてもっていると感じる感性です。

この手の抽象化は数学のほぼすべてをおおっています。




バカは数学を触ってはいけない

正直、おれみたいなバカは数学を触ってはいけないとおもっていました。

でも理科大の秋山先生とかに触発されて、おれみたいな者でも数学語っていいのかなと思っています

世の中には、色々な人がいます、ハナクソほじるのがうまいひととかいろいろです

数学にはなんかあるとずっと昔からおもっていました

理屈で反論できないというのはすごいことです

いま、興味深いのはゲーデルの不完全性定理です




合気道祥英会を休会することにしました

ちょっと、このところ仕事が忙しくて心身ともに疲れているなと感じていましたので、鈴木先生に、休会をお願いいたしました。

ただ、いまだに、調子が安定してきたら、合気道を続けるつもりです!




生徒さんの脳に概念を生み出す

なぜ、私は塾講師をすることで深い満足感を得ているのかと言ったら、生徒さんの頭のなかに新しい概念、たとえば「生態系」、「マイナスの数」、などというものを生み出しているからだと思い至りました。

正直言うと、講師を始めたころは、たとえば、「足し算」、「マイナスの数」、「食物連鎖」などということを知らない、「人」がいるということが、衝撃的でした。

中学生とはそういう人なんだという認識がうまれるまでしばらくかかりました。

いまは、とても充実しています。




自信満々の人

私の弱点の一つに自信満々の人に弱いというものがあります。

「わたしは空を飛べます」

と自信満々に語られたら、色々な状況や証拠を考える思考が警報信号をけたたましく鳴らしているのにもかかわらず、コロッといってしまいます。

「ああ、俺はそんな事を自信満々で人に言うなんてありえないから、この人はきっとスゴイ人なんだなぁ」

というわけです。

この年まで、怪しげな宗教にはまったり大きな金銭的詐欺などに引っかかっていないのが、奇跡のように思えます。

まぁ、釈迦がそういう人だったとしても、人格の極限の形としてそういう思考ゲームをさせてくれただけで、感謝しています。




合気道5級ならず!

今日の稽古の見極めで私の技が未熟なため、5級審査は最終的なお許しがでませんでした。

正直、感動しています。

合気道祥英会はぬるくて甘い組織じゃないことがわかって、私自身ほっとするというか、なんか、祥英会の一員であることが誇らしく思えてきました。

合気道に精進します!




千年恨む

私自身、大学時代の親友の一人は、在日朝鮮人でしたし、いまも、韓国籍の友人がいます。

がしかし、一国の代表が相手国に「千年恨む」といったら、まぁ、私は言われた日本の国民なんですが、正直ヘコみます。

ただ、被害を受けた者は、相手を赦すことはできても、忘れることはたぶん永久にないだろうとも思っています。




戦争の放棄

安倍首相の最近の動きに世間で抗議の声があがっていることは、世間に疎い私でも知っています。

白状すると、安倍首相が何を思い、日本をどうしようとしているのか、よくフォローできていません。社会人として忸怩たる思いです。

でも抽象化した意味で「9条があるから日本の平和はたもたれてきたし、これからも保たれる」という言明は、「う~ん、そうかなぁ」という感想をもっています。

ロシアがウクライナにした圧倒的なパワーのチカラを目の当たりにして、そのほか他の国が軍隊をもっていたり、日本でさえ軍隊をもっている状態で、「戦争を放棄する」と国際的に表明することで、本当に日本の平和がたもたれるシナリオを私は描き得ません。

政治的、経済的、思想的、軍事的、いろいろなパワーがあると思いますが、思想的感情的なパワーである「戦争の放棄の表明」がそれほどのパワーを発揮できる気がしません。

これは、別のエントリでも書いた力愛不二の「力のない慈悲は無力である」の部分が本当なのかといま考えていることにつながる気がしています。




カワイイ

インターネットの世界をただよっていると、いわゆるカワイイ子猫や犬の動画、写真を目にする機会が多いです。

そこでは、多くの人が「カワイイ~」みたいな感想をたくさん表明しています。たぶんみなさん本心で言っていると思います。カワイイと感じているんでしょう。

白状すると、私はこのカワイイと思う感情がいつのころからか、無いです。

これは、「子猫だな」くらいの感想しか浮かびません。

「これって人として結構、ヤバいんじゃないか…」

昔は、たしかにカワイイと思う気持ちがあった気がします。

とはいえ、やっぱり妙齢の女性を街でみかけると、「美しいな」とは感じます(笑)。




狩り

私は、今現在の生活で、釣りを含めて狩りはしません。

でも、動物を狩ることを想像すると、「血湧き肉躍る」感覚が発動するのが自分で感知できます。

これは、昔の狩猟採集生活していた、私のご先祖様たちから受け継いだ感覚なのではないかと思います。

たぶん、アマゾンなんかの、そういう部族のいるところで生活することになったら、一生懸命、狩りの技を磨こうと努力すると思います。

「食べる」ことを本気で考えてみようかと思っています。

満足

昔から思っていることで、何をもって満足するかといわれれば、この世に新しい概念を生み出すことができたら。たぶん、どんな拷問を受けても笑って死ねる気がしています。

でも、私は、人の世が永遠に続くとは信じられません。

まぁ、人類が他の恒星系に子だねを送ることができれば、ある程度の年数は稼げるでしょうけど、宇宙の寿命ってたぶんあるんでしょう?と思います。

諸行無常・諸法無我ってすごいなと思います。




カルマ(業)

自業自得など、業の概念は私たち日本人になじみが深いと思います。

業と輪廻転生は切り離せないのかもしれませんが、私は正直に言うと輪廻転生は信じておりません。おもしろい仮説だと思っているくらいです。

その手のなんらかの生体エネルギーのようなものを想定しても、だれかが言ったように、生き物の死は、燃え尽きかけたロウソクの炎を、新しいローソクに移し替えるかのように、その移す前と移った後の炎に連続性を見出すなら、輪廻転生はあるでしょうくらいに解釈しております。

私は現在、自分の死が怖くありません。でも痛みはいやです。

なかなか、生物の基本プログラムとして、死と痛みは切り離せないようになっていますが、「痛みのない死」を怖がる人は存外すくないのではないでしょうか?

私はいわゆるカルマ(業)はあると解釈すると、結構、この世の物事の解釈が分かりやすくなるなとは感じています。

将棋の駒師で、重罪犯の裁判の判決文を読むのが趣味のチポヤさんに、そういう人の話を聞くと、”業(カルマ)”という量を想定したくなります。

ただ、日々の生活で「業(カルマ)を増やさないようにしよう」とかいう了見はいちども生じたことはありません。

でもしかし、何を思って生活しているかと言えば「楽したい」だけです。で、そういう行動が結果として、よく見直してみれば「業(カルマ)を減じよう」という行動とかなり近いのではないかという最近の発見があります。

ゲーマー失格

「なになに、パズドラやってるんだ、センセイもゲーマーだよ。」ってなことを言って生徒さんの歓心を買おうとするのはやめようと思います。

コンピュータゲームをたぶん、1年くらいプレイしておりません。

数学とか理科とか、英語とかいわゆる役に立ちそうなことばかりやらなくてはならなくて…

ゲーマー友達のラカンさん「念仏さん、この世に無駄なことなんてないのですよ」

私「じゃぁ、我々がプレイしているこのコンピュータ・ゲームも何かの役にたちますかね?」

ラカンさん「それは無理」

私「」

まぁ、私の生徒さんの一人が塾をやめることになったので、へこんで酔ってます。




不立文字

気の利いた概念はほとんどすべて、この世にあるかのように思います。

昔の人はえらい人がたくさんいたんだなぁと感心します。

不立文字の教えにいたく感じ入りながら、だらだら駄文を書いているこの矛盾。

しかし、大人として生活している人で、矛盾の百個や千個かかえていないひとがいるでしょうか?




差別と区別

私も差別されかねない属性をごまんと持っている身なので差別はいやだけど、この世があるかぎりなくならない現象と理解しています。

たしか、評論家の呉智英先生が「差別もある明るい社会」ということをおっしゃっていたと思います。

で、現代社会で生きている以上、自己と他者の区別は存在しないと、社会生活がいとなめないのではないでしょうか。

力愛不二

日本独自の拳法である、少林寺拳法の開祖、宗道臣の言葉だと思います。

力のない慈悲は無力であり、慈悲のない力は暴力であるという意味で解釈してます。

この世において、あらゆる意味での力の強大さを日々の生活で痛いほど実感しております。

力愛不二…これって真(T)かなぁ…………

と、昼間からずっと空いた時間に考えています。

「慈悲のない力は暴力である」はほぼ正しい気がしています。

問題は、「力のない慈悲は無力である」のくだりです。




叱ること

生徒さんを叱ることに非常な抵抗というか、困難を感じています。

なぜなら、「これは、ほぼ100%に近く、生徒のためになる」という確信がないと、私は生徒を叱り得ない難儀な性格だからです。

私は、どういうわけか、生徒が私をぞんざいに扱ったり、軽く見たりしても「私的な怒り」はほぼ100%近く制御できます。

「私的な感情的によって叱る」という場面はほぼなかったと断言できます。

だって中学生・高校生の精神の未熟さを目の当りにしたら、そういう感情は起こり得ません。

幼稚園児にマジ切れする大人がいますか?

そういう私でも「ほぼ100%この場で叱らないとこの子の将来にかかわる」という場面では叱ったことがあります。

守秘義務があるので、詳しく言えないですが、たとえで、非常に何らかの精神的なこだわりがあって、ある作業を異常なまでに遅くする生徒がいます。

これは、そのこだわりを私が叱ることによって矯正しないと、あきらかに100%近くその生徒の将来に不利益が生じるであろうと言う確信があったので、すこしきつめに叱りました。

その後、2週間その生徒さんは授業を休みました。でも私に後悔はありません。

その生徒さんは、いまでは、テキパキとその作業をします。

生徒を叱ることがうまい私より歳は若いですが、講師経験は豊富な同僚に相談したら、「それがビジネスです」というありがたい言葉をいただきました。