理屈じゃなく悪いこと

自分は理屈を患っているという気づきを得たわけですが、たしかに意味もなく動植物をいじめることは私はしません。

なぜかというと、その理由は分かりません。

でもそういうことはしない。

なぜなら、ひとことで言えば悪いことだから。

今は、多くの人が悪いことと感じていることで、理屈がまだついて来ていないことには、それでも何かがあるのかなと「感じて」います。




育ちの良さ

先日、自分の子どもといってもいいくらい歳の若い同僚と食事していたとき、私が母に電話を入れました。

私「うん、今日、飯食ってくから。そうそう、いらないからね。じゃね。」

電話を切ってからその若い同僚が私にポツリといいました。

「親にタメ口ですか…」

その場はなんとなく流しましたが、後から考えて、この一言で彼の育ちの良さがうかがえました。




ラージャヨーガ

以前、ホメオパシーの先生に紹介されてふざけて「理屈を患っております」と言ったことがあるんですが、冗談ではなく、本当にそう思えてきました。

理屈と感情、右脳と左脳、やはり、理屈ではそうなんだけど、多くの人が感情的にそうは思わないことをやると、生きにくくなるのではないかと考えました。

ただ、私の悪い癖ですが、そんなことをやるつもりがなくても、あんな悪いことをしてやるぞ、こんな悪いことも考えられるぞという露悪癖があります。

以前、ブログでふざけてニャーナヨーガをやると言いましたが、本当にそうなってしまいそうです。ニャーナヨーガは難しいらしいので、できれば王道のラージャヨーガに切り替えたいです。

難しいのはかんべんしてほしいです。俺だって楽したいです。




人になにかをさせること・させないこと

塾の授業も個別・集団共にだんだん慣れてきて、自分なりにこうしてみようとか色々ためしています。
室長がそういう自由を許していらっしゃるおかげです。

良い悪いの判断はおいておくとして、他人に何かをさせたり、また他人が何かをしないようにしたりすることは、非常に難しいと感じています。

ましてや、こちらの意図した結果をそれから得ようなんて至難の業に思えます。

「人をこうさせよう」とか「人がこうしないようにしよう」なんて了見はとても傲慢で小賢しい考えなのかもしれません。

寄付を集めることについて

まず、私がどうしても命に代えても助けたい人たちがいるとします。助けるには多額の金が必要という結論になったとします。でも私にはその金がない。

これは完全に「私利私欲」です。

私はここで、他人様に「金をめぐんでください」とは、言いえません。

では、どうするか。死ぬ気でなんでもして自分で金を稼ぎます。靴の裏をなめろと言われれば舐めます。46歳の老体に需要があるか分かりませんが、ホモの客をとれといわれれば取ります。ナメクジ500匹食えといわれれば喰います。詐欺でも銀行強盗でもなんでもして、懲役でも死刑でもなんでも甘受します。

これは仏教でいう愛(執着)です。

でも、せめて愛とかなんとかそういうごたくを世間に言うならそれぐらいの覚悟がいるだろうと考えます。

ただ、幸いなことに(ほんとうにホッとしています)今の私には、それほど執着をするものはありません。

私の母は人工透析患者で近いうちに死ぬでしょうが、彼女のためでも、そこまで自分を追い込める自信はありません。




食べものについて

食べものに関する理屈に関しては私は知識、思索にあてた時間ともに素人と言っていいでしょう。

そうは言っても、46歳のいままで、食い物食って身体を維持してきたのです。そういう意味では素人とすませられないものはあるでしょう。

いろいろな状況がありえますが、基本的にいままで、「うまければ、なんだって食べる」という感じでした。

西洋科学的な観点では、栄養学というものがあります。ここらへんは、西洋科学の厳密さで、徹底的に理屈を積み重ねて理論構築すれば、なかなかちょっとやそっとでは異論が出ないようなものができあがるのかなと思っています。

でも、まったく栄養学を勉強したことのない私がたまたま見聞きした栄養学の理論でもつっこみどころがかなりあるようには、なんとなく感じていました。

私はここ数年ヨガをやってみて、身体と心がつながっているという実感を強く感じています。

いま食べものに関して思っているのは、「自分の身体がどう感じるかを大切にする」ということです。

たとえば、カップラーメンはすごく好きですが、どうもカップラーメンを食べたあとに、胃がなんか変な感じがするという気づきを得てから、とくに状況的に必要がないときは、カップラーメンは食べていません。

またヨガではあまり奨められていない肉食についてですが、いまでも食べています。
「意識のある動物は食べないようにしよう」とか「食肉用の家畜は非常に残酷な境遇で育てられているものがいます」とか「人間は体の構造が肉食に向いていない」とかそういう類いの意見には、非常に理屈として脆弱なものを感じます。

「意識のある動物は食べないようにしよう」ですが、「意識がある」とか「賢い」とか「いろいろ感じてそう」とか、それは人間が勝手に作った都合の良い判断基準じゃないかという疑問が湧きます。

何も感じていないように思えたり、バカそうに見える植物だって、立派な生き物だと思います。

私は航空機事故でどっかの雪山に不時着して、食べるものがないという極限状況に置かれたらたぶん人肉だって、感情的には気持ち悪いとかおもいながらも食べると思います。

「生きるためには、他の生き物を殺して自分の血肉とせざるをえない」これはそういう世界設定なわけで、そのことに何ら負い目も感じません。まさにサバイバルのためにはなんだってするのです。

「食肉用の家畜は非常に残酷な境遇で育てられているものや分けが分からんホルモンを打たれているものがいる」ということについては、じゃ、安物の肉は避けた方が「自分の身のためかな」とか、「でも高級和牛がのびのび放牧されたりして適度に霜降りにしたりするのっておれはあれでずいぶん人間の都合の良い育て方だよな」とかいろいろな思考があたまを巡ります。

ぶっちゃけ、私の食う動物が恐怖を感じていようがいまいが、恐怖を感じたら全身に有害物質や不健康な物質を放出するとか、そういう、「私」にとって都合の悪いことが起きなければなんの不都合も感じません。

「人間の身体は肉食に向いていない」ですが、これも素人考えですが、「え、人間って類人猿の親戚でしょ?類人猿って雑食じゃないの?」という疑問があります。

実際、いままでの経験上、肉食がそんなに体に悪いとは思えません。

ただ、菜食のほうが、頭がすっきりするとか心がリラックスしやすいとか、あくまで「私にとって都合がよい」ことが起こるのならそれもやってみたいです。




合気道5級審査を受けます!!

今日の稽古で道場主の鈴木南美雄先生からお許しがでて、7月12日(日曜日)に合気道5級の審査を受けることになりました。

何をするかというと、(相半身片手どり)四方投げ(表裏)、一教(表裏)、という技と前方回転受け身、後方回転受け身、膝行(ひざであるくこと)の審査を受けます。

スゴイ人であるベテランの高橋さんに審査では相手をしていただくことになりました。

実はまだ日本合気会の会員でもなかったのに、合気道をいままで語っていたわけですね。

受かれば晴れて合気道をやっていますと言えるのかな。

我々祥英会(久里浜合気会)は西尾先生のスタイルをやっているので、剣と杖を使った稽古もするのですが、私は合気道もすきなんですが、剣杖により惹かれています。

願い事が1つかなうとしたら

朝の稽古、ヨガ、勉強が済んで、仕事まで時間があるので、また妄想に浸っているわけです。

まず、私はヨガや仏教に興味があるので、いわゆる「悟り」という精神状態が「ある」と仮定しております。

願い事が1つかなうとしたら、「全生物が悟りを開いた状態になる」ことを願ってみたいと思いました。

そうしたら、どういう文明や社会、政治が現出するのか非常に興味があります。

閑話休題。

私は人類がサバイバルする可能性があるのはテクノロジーや科学の発達にほぼ全面的に頼っていると思っています。

人々の心が愛に満ちて自然と安らかになってというシナリオは、自分がどれだけ下衆になれるか知っているので到底信用できません。

閑話休題

で、テクノロジーが発達して、自分の心を強制的に悟りの状態にスイッチONすることができるとしたら、私は個人的にそれは「あり」だと思っています。

ただ、SFにもたぶん描かれていると思うんですが、そういう安直な答えにはとうぜん落とし穴があるんですよね~。

閑話休題

悟りとはなんなのか、悟ってない私にはわからないのですが、仏教の三法印に悟りの境地を表現した涅槃寂静ということばがあります。

まぁ、落ち着いた心でしょう。

そういう話をデイケアセンターのヨガレッスンでさせていただいていたときに、職員の方から「悟りを開いた人をおもいっきり殴ったらどうなりますか?」という質問をいただきました。

私「さすが、お目が高い。私もそれが長年の疑問でした。もし、インドに行って、聖者と言われている人に会う機会があったら、殴ってみたいと思っていました」

話し合った結果、まぁ、「なにをするんですか」とか「痛いのでやめてください」とか大人の対応するのかなとか、マジ切れされて反対にボコボコにされるのかとかよくわからなかったです。

閑話休題

ヨガや仏教には、アヒムサ(非殺生)という教えがあるんですが、インドのガンジーもアヒムサをもとにして、非暴力抵抗運動を展開したとおもいます。

ヨガの文献を読んでいて、「彼(ガンジー)のアヒムサが究極にまで徹底していたとしたら、彼を暗殺することはできなかっただろう。アヒムサにはそういうパワーがある」という物言いがあった気がします。

たぶん、因果律的に物理的に精神的に、そういうことが、「起こりえなかっただろう」という面白い物言いです。

閑話休題

評論家の宮崎哲弥さんが言っていた話だと思いますが、あるとき仏教の僧の一団が船旅をしていて嵐に遭ったそうです。そのなかで、ただ一人だけ生き残った僧がいたらしいです。

その僧だけが生き残った「理由」は「後で、悟りをひらくから」だそうです。

つまり、時系列が逆転しているわけで、とても面白い話だと思いました。

何かを人に説明するとき

あることがらを理解していることと、人に説明できることには少し違いがあると思います。でも、理解していなければ、人に説明できないということは言えると思います。

私は幼いころおばあちゃん子でした。いまは他界してもうこの世にいません。

何か難しい概念やシステム、仕組みなどを人に説明するときに私が理想としているのは、「おばあちゃんが聞いて理解できるように説明する」ことです。

これは、釈迦の対機説法にも通ずるところがあるかなと思っています。




合気道家は人体の専門家

合気道の稽古に、毎週日曜日参加できています。

我が祥英会には、いろいろな「すごい人」がやっぱりいます。

私は、「合気道家はある種の人体の専門家なんだな」と最近、思うことが多いです。

どういうことかというと、例えば、私はもともと体が柔らかい方で、その上、最近はヨガをやったりしているので、腕の関節がありえないような曲がり方をしたりします。

それで、稽古で相手が黒帯をとったばかりの方だったりすると、関節の決めが私に効かないことがあります。

私も年相応にずうずしくなっているので、そんなときは、「~さん、正直、痛くないです」と言ったりします。

そうすると、古ツワモノの方が登場となるわけです。
で、その方が私に、「身体の柔らかい人にはこうして…」
私「痛ててててて!!!!」

となるわけです。

前回の稽古でもそういう場面があったのですが、そういう先生たちによると、人体にはそういう身体が柔らかいとか関係なく「効かざるをえない」いわゆるツボのようなものが無数にあって、そういうツボを熟知してらっしゃるらしいです。

恐るべし、合気道!