スキル Drone Interfacing を上げる意味

レベル1上がるごとに、ドローンの攻撃力が20%アップします。

ということは、同時に扱えるドローンの数はたしか5なので、

20% * 5 = 100%

つまり、全体で100%の攻撃力アップ

ということは、つまり、攻撃力はそのままで、扱えるドローンが1機増えて、6機のドローンを扱えるという意味にもとれます。

で、Lv5にすると、20%*5*5=500%

つまり、全部で10機のドローンを扱えるのと同じことになります。

で、ここからがミソで、以前のEve Onlineでは、実際に扱えるドローンの数が

増えるというスキルだったそうです。Drone Interfacingという名前にその痕跡が見て取れます。




真言吐きのKさん

私がNACHOアライアンスに在籍していたころ、

私が心の中で「真言吐きのKさん」と呼んでいた方がおられました。

思ったことをそのまま口にしているように感じられるからです。

Kさんのことを、困った人だと思う人もいるかもしれませんが、

Kさんは私の恩人の一人です。

Kさんが、

「念仏さん、そんだけ英語話せるなら、教えられるんじゃない?」

と私に言ってくれたおかげで、現在の職を得ました。

私は深く感謝しています。




釈迦の生まれ変わりというギャグ

私のように、すこしだけ仏教やヨガをかじったものにとって、

「私は釈迦の生まれ変わりです」

という人を見聞きすると、頬がゆるまずにはおれません。

釈迦が仏陀たる定義は、ヨガ、仏教におけるの輪廻転生理論において、

輪廻転生からの解脱つまり、もう生まれ変わらないからこそ仏陀なわけで、
これは矛盾であり最高にツボをついたギャグとしか思えません。
たしか釈迦も明確に

「自分は解脱したから後有を受けない」

という旨の発言をしていたはずです。

歌うように、ダンスをするように、旅をするように生きる

「歌うように、ダンスをするように、旅をするように生きる」

この言葉を私のヨガの師匠のブログで初めて読んだとき、正直、

「なにすかしてんだ、この女」

と思ってしまいました。

しかし、最近、公園墓地を散歩中に、思ったのですが、歌を歌う、ダンスをするということは、自由に楽しく歌ったり、身体を動かしているようでいて、調子はずれにならない、ステップを外さない、つまり、人生で人の道を外れずにいながら、なおかつ、自由に楽しく生きるということなのかと思い至りました。

”旅をするように生きる”部分は、私の修業不足でまだよくわかりません。




真言:Let it be

先日、公園墓地で散歩しながら、Let it beは真言だなと腑に落ちました。

ここで言っておかなければならないのは、私はニワカ仏教マニアなので、仏教的に真言というものがどういうものか知りません。ただ、”まことのことば”かなと思っているだけです。

仏教で、はからいを捨てるという考え方があるようですが、人ごみで、屁をしたくなったからといって、はからいを
せずに、放屁するわけにはいきません。だから、現代人として生きる以上、
最低限のはからいは必要になります。

もし、ある人があるかわいそうな人を救ったとして、その結果として、ほかのだれかが
可哀そうな状態になるかもしれません。

Let it be とはそういうことです。

この世は、弱肉強食というルールで動いています。

しかし、だれかがだれかを救いたいという思いも"Let it be"で邪魔する必要もなく、また邪魔しようとする人にも"Let it be"が当てはまり、限りなくこの"Let it be"の連鎖は続きます。

すべては、天命です。




ジルボルトテイラー博士に起こったこと

ジルボルトテイラー:パワフルな洞察の発作

2014年3月30日TTC宿題 ジル・ボルト・テイラー博士の講演

 まず、私がもった第一の感想は「やがて悟り(サマーディ)も西洋科学的に解明されるときがくるのかもしれない」というものでした。

 博士は自身の身に起こった脳卒中(左脳の脳血管障害)で、強制的に悟りの境地を体感したわけですが、苦しんだ博士には悪いですがこういう西洋科学を代表するような知性の人が悟り体験を図らずも得て、それを彼女自身の言葉つまり科学の言葉で世界の人に伝えるということは非常に貴重なことだと思いました。いくらヨガの達人が悟りというものがあると伝えても、悲しいかな、この西洋科学偏重の世の中では、悟りの存在さえ疑う人が多くいると思います。

 西洋科学的に悟りが解明されていく過程では、西洋科学の側からヨガへ多大な貢献が期待できると思います。西洋的なものと東洋的なものの融合こそこれから我々ヨギーが目指すべきものではないかと思っております。

 具体的な講演内容では、右脳はパラレル・コンピュータで左脳はシリアル・コンピュータであるという説明が興味深かったです。右脳が”今”を超並列的にとらえ、それを左脳が過去・現在・未来の一本道の流れに整理する。講演では詳しく語られませんでしたが、博士の本では、一度壊れてしまった右脳と左脳の関係を再構築していく過程が語られているらしく、買って読んでみたいとおもいました。

 今をとらえる右脳だけでは、やはり、生きていくうえで支障がでることから左脳が存在するのでしょうし、右脳ってスバラシイ!ということだけではなく、いかに右脳と左脳のバランスをとるかということが大切なのだと思います。ただし、現代人は計画だった行動がメインになっておりますので、いまは左脳ばかり使うことが多いのかなと思いました。右脳の活性化ということでは、私は左利きという利点があるので、他の人よりも、右脳を使っているのかなと思います。

 私は、博士も言及していた、不思議な多幸感を最近よく日々の生活の中で感じることが多いです。これがヨガのおかげかわかりませんが、非常にハッピーな毎日を送っています。

 また、最近やっと、ヨガは体が柔らかいほうが偉いといった我見がとれてきました。より精神的にリラックスできるようにヨガにとりくんでいます。また呼吸の重要性も非常に身に染みてわかってきました。

 博士はどうやら、講演ができるほどに回復されたようですが、できれば彼女がいまもサマーディの状態になることができればいいなと思っております。彼女のような人はぜひ、ヨガや宗教界のほうからアプローチしてさまざまな対談などが行わればいいのにと思います。彼女のこれからの活躍を祈ってこの感想を終えます。




一休宗純

  • 釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな

おもしろい人ですね。友達になりたかったような。

公園墓地は私のスピリチュアル・スポット?

私がなぜ、これほど、公園墓地での散歩を好むのか、すこし、頭に浮かんだことを書きます。

公園墓地は、私にとって、いま流行りのスピリチュアル・スポットなのではないかと思いました。

朝、公園墓地へ散歩へ行くと、あった人たちは、だれからともなく「おはようございます」と挨拶します。非常にすがすがしいです。

朝の公園墓地の散歩で、顔見知りになった、ワンコや飼い主の方も結構います。

今朝、なんとなく、「ここって、スピリチュアル・スポット?」と思いました。

徳の高い人

私の使える言葉は、仏教とヨガの言葉なので、それを使って、私が考える「徳の高い人」の定義をします。将棋の駒師Tさんと話していて、思いついたことです。

ヨガの輪廻転生仮説を信じると仮定した場合の話です。

短く言うと、徳が高いとは、カルマが減じられている状態の人だとわかりました。
因果応報の応報をそれなりに受けてカルマが解消されて、そこからさらに新たなカルマをつくらなかったために、
因果がなくなった人が徳の高い人です。

ハリ・オーム・タットサット




自分に合っているヨガ

以下の文章は、私がヨガのティーチャートレーニングコース(TTC)での宿題の答えとして書いたものです。

2014年2月17日TTC宿題 自分に合っているヨガ

愛と献身のバクティ・ヨーガ、無私の行動のカルマ・ヨーガ、瞑想のラージャ・ヨーガ、知性と実践のギヤーナ・ヨーガ。この中で自分に合っているものは何かを考えます。

まず、バクティ・ヨーガですが、私には信仰している宗教はありません。また、まだ本当の意味で、この身を奉げるような師匠と呼べるような方にもであっていません。したがって、愛慕の念をささげたり、献身する対象をまだ見つけておりません。よってバクティ・ヨーガは私にはあまり向いていないと思います。ただ、しいて言えば、釈迦に憧れをもっています。そして、完全に愛慕と献身をするというには、あまりにも昔の人すぎてその言行が正確にはわからず、とまどっているという状態です。

つぎにカルマ・ヨーガですが、無私の行動というのは、結構気に入っている行動規範です。無私の行動には私に跳ね返ってくるカルマがないということに、いつのころからかは分かりませんが、なんとなく気がついていました。若いころ私はフリーソフトウェアというものを書いて、インターネットで配っていました。フリーソフトウェアとは無料でだれでも利用できて、また誰かがそれを書き直したりして再度、公開してもいいというものです。見返りは期待しておりませんでした。最初はどうだこんなソフトウェアを書ける俺はすごいだろうという自分の能力を誇示したい気持ちもあったような気がしますが、世の中には常に自分より才能がある人がいるということに気が付いてからは、淡々と必要なソフトウェアを書いて公開するということをしていたように思います。もちろん、こんな酷いソフトウェアを書いている奴がいるという酷評を受ける可能性もありましたが、気になりませんでした。
そういうわけで、カルマ・ヨーガはまずまず私にあったヨーガだといえると思います。

その次は瞑想のラージャ・ヨーガですが、私はこのヨーガに対して憧れをもっています。瞑想により悟りを得た釈迦に対するあこがれがあるからです。ただし瞑想が自分に合った修業方法なのかは正直まだよくわかりません。したがって、ラージャ・ヨーガが自分に向いているかどうかはまだわからないという状態ですが、ラージャ・ヨーガは引き続き実践していきたいと思っております。先日のTTCで真理先生がおっしゃっていた、瞑想は難しいと思ってやめてしまう人が多いということや、それをヘッドスタンドポーズでさえあきらめてしまう人がいるという例えをだされていましたが、なるほどそういうものかと思い、瞑想の修業を続けようと思いました。

最後は、ギヤーナ・ヨーガですが、私は自分に合っているのはこのヨーガだと思います。私はものの理屈を考えるのが好きです。大学では電気工学を勉強した日本では理系といわれる種類の人間だとおもいます。その一方で、心の問題にも非常に興味があり、ヨガを始める前には仏教を多少かじってみたりしていました。

私はよく冗談めかして、自分の信じている宗教は科学だと人にいったりします。科学もある仮説を信じるか信じないかという問題がでてくるからです。そして、真理先生やヨガの本を通して、ヨガも経験と検証の繰り返しによって長い歴史の中で積み重ねられた理論体系つまり科学だということを学びました。私はこの心と体と世界とのかかわりについての科学を学びたいと強く思っています。そして、自分の心と体と世界とのかかわりについて注意深く観察し、なるほどこれは確かに正しいという確信を深めながら、勉強を進めていきたいと思っております。

いまはギヤーナ・ヨーガの実践者であると知った、南インドの聖者ラマナ・マハルシに興味があります。

ラマナ・マハルシは「私は誰か?」という問いかけによる実践的な真我(アートマン)の探求を推奨したということです。

私は若いころ、非常に「俺が俺が」という意識を持て余していました。恥をかくのを非常に嫌いました。プライドも変に高かったのでしょう。今年45歳になるのですが、いろいろあって、この年になり、初めて、この「俺様」という心持ちを捨てられかけている気がします。

また、よく考えてみると、結局、仏教をかじってみたり、ヨガを始めたのは、このやっかいな「俺様」をどうにかしなければ、生きていけないという気持ちがあったと思います。俺様気分は生き辛いと今では思っています。

そういうことで、ヨガ修業に励みたいと思います。

ハリオーム・タット・サット!