自分に合っているヨガ

以下の文章は、私がヨガのティーチャートレーニングコース(TTC)での宿題の答えとして書いたものです。

2014年2月17日TTC宿題 自分に合っているヨガ

愛と献身のバクティ・ヨーガ、無私の行動のカルマ・ヨーガ、瞑想のラージャ・ヨーガ、知性と実践のギヤーナ・ヨーガ。この中で自分に合っているものは何かを考えます。

まず、バクティ・ヨーガですが、私には信仰している宗教はありません。また、まだ本当の意味で、この身を奉げるような師匠と呼べるような方にもであっていません。したがって、愛慕の念をささげたり、献身する対象をまだ見つけておりません。よってバクティ・ヨーガは私にはあまり向いていないと思います。ただ、しいて言えば、釈迦に憧れをもっています。そして、完全に愛慕と献身をするというには、あまりにも昔の人すぎてその言行が正確にはわからず、とまどっているという状態です。

つぎにカルマ・ヨーガですが、無私の行動というのは、結構気に入っている行動規範です。無私の行動には私に跳ね返ってくるカルマがないということに、いつのころからかは分かりませんが、なんとなく気がついていました。若いころ私はフリーソフトウェアというものを書いて、インターネットで配っていました。フリーソフトウェアとは無料でだれでも利用できて、また誰かがそれを書き直したりして再度、公開してもいいというものです。見返りは期待しておりませんでした。最初はどうだこんなソフトウェアを書ける俺はすごいだろうという自分の能力を誇示したい気持ちもあったような気がしますが、世の中には常に自分より才能がある人がいるということに気が付いてからは、淡々と必要なソフトウェアを書いて公開するということをしていたように思います。もちろん、こんな酷いソフトウェアを書いている奴がいるという酷評を受ける可能性もありましたが、気になりませんでした。
そういうわけで、カルマ・ヨーガはまずまず私にあったヨーガだといえると思います。

その次は瞑想のラージャ・ヨーガですが、私はこのヨーガに対して憧れをもっています。瞑想により悟りを得た釈迦に対するあこがれがあるからです。ただし瞑想が自分に合った修業方法なのかは正直まだよくわかりません。したがって、ラージャ・ヨーガが自分に向いているかどうかはまだわからないという状態ですが、ラージャ・ヨーガは引き続き実践していきたいと思っております。先日のTTCで真理先生がおっしゃっていた、瞑想は難しいと思ってやめてしまう人が多いということや、それをヘッドスタンドポーズでさえあきらめてしまう人がいるという例えをだされていましたが、なるほどそういうものかと思い、瞑想の修業を続けようと思いました。

最後は、ギヤーナ・ヨーガですが、私は自分に合っているのはこのヨーガだと思います。私はものの理屈を考えるのが好きです。大学では電気工学を勉強した日本では理系といわれる種類の人間だとおもいます。その一方で、心の問題にも非常に興味があり、ヨガを始める前には仏教を多少かじってみたりしていました。

私はよく冗談めかして、自分の信じている宗教は科学だと人にいったりします。科学もある仮説を信じるか信じないかという問題がでてくるからです。そして、真理先生やヨガの本を通して、ヨガも経験と検証の繰り返しによって長い歴史の中で積み重ねられた理論体系つまり科学だということを学びました。私はこの心と体と世界とのかかわりについての科学を学びたいと強く思っています。そして、自分の心と体と世界とのかかわりについて注意深く観察し、なるほどこれは確かに正しいという確信を深めながら、勉強を進めていきたいと思っております。

いまはギヤーナ・ヨーガの実践者であると知った、南インドの聖者ラマナ・マハルシに興味があります。

ラマナ・マハルシは「私は誰か?」という問いかけによる実践的な真我(アートマン)の探求を推奨したということです。

私は若いころ、非常に「俺が俺が」という意識を持て余していました。恥をかくのを非常に嫌いました。プライドも変に高かったのでしょう。今年45歳になるのですが、いろいろあって、この年になり、初めて、この「俺様」という心持ちを捨てられかけている気がします。

また、よく考えてみると、結局、仏教をかじってみたり、ヨガを始めたのは、このやっかいな「俺様」をどうにかしなければ、生きていけないという気持ちがあったと思います。俺様気分は生き辛いと今では思っています。

そういうことで、ヨガ修業に励みたいと思います。

ハリオーム・タット・サット!




瞑想

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ヨガのMari先生が瞑想はべつに座禅を組まなくてはできないものではなく、生活のすべての場面においてできるとおっしゃっていました。そのときは、ピンときませんでした。

しかし、瞑想とは、感情が平静で、深い集中状態のことをいうのではないかと、今朝、ロックミュージックを聞きながら、瞑想をしていて気づきました。

そして、シータ先生がニュートンは科学の分野でのリシ(仙人)だったとおっしゃったことがあります。私はそれを聞いたときは、ニュートンがライバルのフックに行った所業を思い浮かべて、「でもニュートンってそうとう性格偏ってそうだけど」と思いました。

つまり、性格がどうであろうと、瞑想を行うことにより、深い洞察を得ることはできるということかと気づきました。

つまり、私が、昔、プログラミングで数時間ハック状態になったりした、アレは瞑想の一種なのではないかと気づきました。つまり、プログラミングを行じていたのではないかと思いました。

そして、本格的な瞑想とは、”何かに集中する”という心の動きそれさえ止めてしまうものをいうのかなと考えました。

気が向いたらまた加筆します。