貧者の武装術ー仏教

どうせ貧乏なら、心だけはキレイさに磨きをかける仏教的な修行と日常生活をとらえてみるのはどうでしょう…

いや、金持ちになる才覚があるならどうどうとやればいいと思いますけど…

インド仏教徒1億5000万人の頂点に立つ“日本人僧” 佐々井秀嶺84歳とは一体何者か?

ヒンドゥー教徒の国・インドで今、アウトカーストである不可触民を中心に、爆発的に仏教徒が増えている。半世紀前にわずか数十万人だった信者は今や1億5000万人となった。その仏教復興の原動力となったのは、インド仏教の頂点に立つ一人の日本人僧、佐々井秀嶺氏だ。彼は半世紀前にインドに渡り、貧しい人々を助けてきた。インドでは絶大な人気を誇る佐々井氏だが、日本ではほとんど知られていない。いったいどんな人物なのか。

@niftyニュース

“色即是空”のすなおな解釈

2019年10月2日:このエントリは以前書いてあったポエムです。もっと何か言いたいことがあったような気がしますが忘れてしまいました(笑)


アインシュタインの 「質量とエネルギーの等価性」 を表した式

E=mc^2

つまり、色(モノ)=空(エネルギー)

われわれが感じている、物質世界は本質的にはエネルギーの一形態であり、われわれの認識系が固体・液体・気体・プラズマとかなんとか”思っているだけ”であるということです。(そういう区別をするんなら、そうなのでしょうという…)

あと”モノ”とわれわれが認識している対象は、実際はボーアの原子模型なんかをみてもわかるように”スカスカ”なはずなのですね。

(たぶん)2ちゃんコピペ:ブッダ「弟子よ、”実体”なるものは存在しない」弟子「・・・???」 2019年09月23日 13:30 宗教・歴史

(たぶん)2ちゃんコピペ:ブッダ「弟子よ、”実体”なるものは存在しない」弟子「・・・???」 2019年09月23日 13:30 宗教・歴史


まとめサイト”うしみつ”に掲載されていたもののコピーです。法的に問題あるようなら消去します。 峯島


弟子「一体どういうことでしょうか」

ブッダ「弟子よ、お前は”家”というものが存在すると考えているか」

弟子「師匠、私は”家”が存在すると考えておりますし、その中で暮らしております」

ブッダ「では、ここに木でできた家がある。弟子よ、これは”家”と呼べるだろうか」

弟子「はい、言えます、師匠」

ブッダ「ではこの家から床を取り除くことにする。弟子よ、これは”家”と呼べるだろうか」

弟子「言えます、師匠」

ブッダ「ではこの家からさらに屋根を取り除くことにする。弟子よ、これは”家”と呼べるだろうか」

弟子「不十分ではありますが家と呼ぶことも可能でしょう」

ブッダ「ではこの家からさらに壁を取り除くことにする。弟子よ、これは”家”と呼べるだろうか」

弟子「師匠、これはもはや家とは呼べません」

ブッダ「お前は今まで”家”であると述べてきたものを”家”でないと言った。弟子よ、お前にとっての”家”は壁であったのか」

弟子「師匠、それは違います。壁がなくとも柱と屋根があればそれは家と呼べるでしょう」

ブッダ「では一体”家”なるものはどの時点で”家”となり、どの時点で”家”でなくなるのか」

弟子「師匠、それは我々の暮らしに安息を与えるものにできる時点でしょう」

ブッダ「つまり”家”なるものは個々人の思い方によって存在する時点が異なるというのだな。草原に生きる人は布の天幕にも安息の場を見いだすが、雨風の多い我がインドの地に生きる民はそうはいかない」

弟子「そういうことになりましょう」

ブッダ「弟子よ、お前は初め「家は存在する」と言った。しかし”家”というものなど初めから存在しないのだ。その存在は我々の心が作り上げたものでしかないのだ。」

ブッダ「同じことはあらゆるものに言える。存在は絶対的なものではなく、相対的に我々が生み出しているのにすぎない」

弟子「その点については納得しました、あなたが普段おっしゃられている”縁起”なるものはそのことですね」

ブッダ「そうだ」

弟子「師匠、確かにその考えは面白いものではあります。しかしそれが結局のところ、私の人生にとって何になるのでしょうか。私は空虚な言葉遊びを嗜むために家を捨ててきた訳ではありませぬ」

ブッダ「弟子よ、存在に囚われぬことで初めて我々は苦の呪縛から逃れられるのだ。我々が目指す地は、正にこの縁起の理解なくして辿り着けぬ」

ブッダ「我々はなぜこの世には”悪”なるものが存在するのかと心を悩ませている。しかし弟子よ、それは無益だ。”悪”などは初めから存在しないのだから。あらゆるものは我々が生んだ言葉でしかない、そこに絶対的な存在はないのだ」

ブッダ「それは”悪”のみではない。”善”も”美”も”快”も存在しないのだ。」

ブッダ「我々は往々にして快楽に溺れる。その欲望は無限に尽きることはないが、我々の力は有限だ。ゆえに我々は必ず手の届かぬ快楽を前にして苦に苛まれることとなる」

ブッダ「しかし弟子よ、案ずるな。快楽とは絶対的なものではない。それは初めから存在しているのでない。ただ我々の心が生み出したものなのだ。ならばそれは必ず克服できる。そもそも我らがそれを生まなければいいのだ」

弟子「師匠、我々はどうすればそれを生まぬ人となれるのでしょうか」

ブッダ「弟子よ、”美”も”快”も”名”も、そして”苦”でさえも全て『言葉』であることを知れ。それらはみな先の木の家である。我々がそれを生み出したことを知るとき、我々はそれらへの従属から解放される」

ブッダ「それらは絶対的存在ではない。ただの言葉なのだから」

ブッダ「あるゆるものが存在しないことを知るとき、我々はついに”存在”に対して執着することを止めるだろう」

ブッダ「その時こそ、初めて我々は苦から解放されるだろう」

弟子「”苦”から解放されようと考えてる時点で”苦”を実体として捉えてしまっているのではないでしょうか?」

弟子「それでは永遠に”苦”から逃れることなどできないのではないでしょうか?」

ブッダ「弟子よ、それはお前が自身で考えることだ。私はただ、お前より少し先に道を歩く者にすぎない」

弟子「師匠、そのような煙をまくような物言いをなさらないで下さい。その道の先に何があるかを教えろなどとは言いません。しかし、その道を歩く方法くらいは教えて下さい」

ブッダ「これを語ることはあまり気乗りがしないが、そこまで言うのならしょうがない、語ることにしよう」

ブッダ「弟子よ、お前の言う通りだ。我々が言葉の中で苦から逃れる方法を考える限り、解脱に至ることは永遠にない」

ブッダ「弟子よ、だから私は言う。考えるのではなく、感じるのだ。言葉を超えるのに言葉を用いてはならない」 

Don’t think, feel (考えるな、感じろ!)

ブッダ「『苦から逃れる』過程で『苦の存在を否定』すること、これは我々の常識からすれば大いなる矛盾である。苦を意識した時点で苦の奴隷となるが、目標が苦からの解放であるのに苦を意識しないというのは根本から不可能であるように思える」

ブッダ「この矛盾を乗り越える方法を私は言葉で説明することはできない、このことは言葉の範疇の外にあるからだ。」

ブッダ「私が言えるのはこれだけだ。お前がその矛盾を突き詰めて見つめ、もしそこに微かな光を見いだしたなら、迷うことはない、『全力で飛べ』 悟りはその先にある」

ブッダ「私の話は以上だ」

弟子「…失礼します」

言葉なるものを真剣に見つめ、「言葉」を乗り越えることに人生を費やしたブッダは、生前に一冊の本も書かなかった。
今、現存する仏典は全て後世の弟子がブッダの言葉をまとめあげたものである。

おわり 

「数式ということばじゃないと正しく伝わらない」問題