所有感

お釈迦様は”無所有でイケ!”と教えられました。

で、所有感つまり、物を所有している感じですが、若いころテレビで見たことなので、すこし記憶違いとかあるかもしれません。

私はクンフー・スターといえばジャッキー・チェンより、ブルース・リーが好きなんですが、私が子供のころはジャッキーが全盛期でした。

で、テレビのジャッキー特集で、ジャッキーが香港の豪邸に数十台の高級車を所有していると紹介しているわけですが、本人は忙しすぎてほとんど車を運転する暇がなくて、なんか車のお世話係みたいな人がいると紹介していたわけです。

”これって、ジャッキーは所有している感じはちゃんと持てているのかな…”

”どっちかっていうとお世話係の人のほうが、ジャッキーの車について詳しそう…”

という素朴な感想をもちました。

今の日本に暮らしていると無所有というわけにはいかないですが、過度の所有感を物にいだくと、それが壊れたり、盗まれたら相当な心理的なダメージを受けてしまいますね。(物といえば身体もモノですね)

さらに言えば、所有感を人間関係や名声、技能など抽象的なものに対しても強くいだきすぎるとそれが損なわれたときにやっぱりかなりの心理的ダメージを受けることになりそうです。

なにかを所有しているから俺は偉いと思っていると、それが損なわれたときに心理的ダメージが来ます。

ドラマなんかで、天才ピアニスト少女が手を怪我して、もう一生ピアノを弾けなくなって、

「私にはピアノしかないのっ、私からピアノを取ったら何も残らないわっ!」

みたいな場面はありがちですが、そう思っている限りはその通りに感じられるのでしょうから、お気の毒だなと思います。

 




ヨガの聖者がなぜ最終的に山にこもることになるか

これはポエムです。また科学用語も私がフワッと理解しているフィーリングで書いています。

まず、複雑系という概念があります。

で、複雑系は初期値への鋭敏さや、”複雑”なだけあって、細部が異様に相互に結びついているので、

”ここに問題があるな、この部分’だけ’を修正しよう”

こういう態度は、複雑系を扱うときは必ず予期せぬ副作用が他で表れて、かえって問題が拡大したり、もっと大きな別の問題が発生したりします。

ただ、観察者にとって、ある複雑系が、全体としてまずまずの良い状態とか、悪い状態とかは主観的ではありますがあるはずです。

私がヨガをやってて、もっていた疑問のひとつは、

”聖者と言われている人が複数いた。なぜ聖者は社会に手を突っ込んで’良く’しなかったのだろうか…”

今の私の理解では、

”社会に手を突っ込んで’悪い部分だけを改善する’というのは至難の業”

ということを理解し、へたにいじくらないのも聖者の態度であると自重していたのだろうと、結果として山にこもることになったのかなと思っています。




他人に卑しさを見たときは

その見立て通りその人が卑しい心の動きで動いていることもありえますが、

あなた自身が卑しいこころの動きを持っているから、それを他人の中に見ているだけという可能性も十分あり得ます。

Do not judge, or you too will be judged.  For in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you.

Why do you look at the speck of sawdust in your brother’s eye and pay no attention to the plank in your own eye? How can you say to your brother, ‘Let me take the speck out of your eye,’ when all the time there is a plank in your own eye?  You hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother’s eye.