ノアだけはガチ

いちじ、プロレスにはブックという筋書きがあってということがおおやけになりはじめたころ、ノアというプロレス団体の熱心なファンが某巨大掲示板で、「ノアだけはガチ」という主張をしてらっしゃったと聞いたことがあります。

その感じで、いち釈迦ファンとして、私は「釈迦はガチ」という主張をしたいです。少なくとも第三者が観測しうる限りにおいては、人々の心にある「聖者」の概念を体現しているように感じられたのではないでしょうか。

ある種、認めざるをえない言動をしたので千年、二千年と残ったのではないでしょうか。

ただ残念なのは、「聖者」はまがいものも数多くいるわけで、私の友人なんかも「全員がまがいもの」と思っているところですね。

自灯明・法灯明

釈迦は最後の旅路の途中で入滅するにさいし、そばに仕えたアーナンダに自灯明・法灯明の教えを残しました。

法(ダルマ)とは私なりの理解では、この世を統べる法則や道理といったところでしょう。こうすればこうなるみたいなのです。これには当然、物のことわりである物理法則、心の動きについての心理学的法則、人との関係性の社会学的法則なんかも含まれるはずです。

で、自灯明を言ったところがさすが釈尊といわざるを得ないのですが、自己(煩悩をコントロールした末にでてくる智慧による自己)をよりどころにせよといっているわけです。自ら考え・感じることを放棄して盲目的に何かに従うことを暗にいましめています。

釈尊は「俺の言ったことを守らないと、ものっすごい天罰でお前を滅ぼす」みたいな脅迫的言辞はいっさい弄せず、ただ、「そういう心持ちで動けば、そういう結果になってあんたは苦しむだろうな」みたいに諭すだけですね。

まぁ、私も釈尊の教えを自分なりに参考にさせてもらって、自分で若いころから気が付いていた「俺は自分の我の強さで死ぬことになる」という思いからいまのところ逃れて生き延びてます。

空にして無相

財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。
──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

ダンマパダだと思いますが、”空にして無相”の部分が私の中二スピリッツにビビッときますね~。

私は仏教的なものの見方を大いに参考にさせてもらっていますが、たぶん、一生かかっても空にして無相という心境にはいかないとおもいます。私の英語がたぶんネイティブ・スピーカーみたいにならないのと同じなんでしょうけど、いや、私なりの”決意”をすれば生きるか死ぬかのところまで突き詰めるでしょうけど、そこまでは正直しんどいなというのが本音です。

あと最近は老荘思想なんかもつまみ食いしていますが、”遊”の概念を内包しているということで、これはこれで私好みだなと思っています。