愛、慈悲、空

以前、ヨガの理論面での先生に個人的に授業の感想のメールを送って、返ってきた返事のメールに「けっきょく、愛ですよね愛」みたいな文言があって、アレ?と私は思いました。

仏教では、肉欲につながる”愛”と強者から弱者への慈悲としての”愛”を区別して扱います。で、愛欲はほどほどにどんなものか楽しめばいいと思いますが、ハメをはずすとクソみたいな事態になりますね。で、もう一方の慈悲はたしかに人間社会では価値あるものだと思いますが、それも残念ながら地球上で繁栄した人類という生き物に特有の価値観だと思います。とはいえ、私も人間ですので慈悲の心を持ちたいものだと思っています。

そういう上辺をとりはらった、この世の核となるナニカもしくはそのナニカの状態を表す概念としてはやはり空(クウ)なのではないかと思います。といいつつ、空とはなんなのかはわかりませんが(笑)

死はかならずしも悪いものとはいえない

と言うと、エッとなりますよね。でも、私は死んだらどうなるかはいまは分からないと思っています。科学的な思考をたどっても可能性として死後になにかあってもおかしくないといまは思っています。(まぁ、その裏付けみたいなのは量子力学の二重スリット実験における意識の問題です。これを書くにあたり、また飲茶さんのサイトを読み直すつもりでしたが、見切り発車してしまいました)

その”何か”とは何なのか残念ながらわかりません。

薬師丸ひろ子さんの「セーラー服と機関銃」の歌詞に”さよならは、別れのことばじゃなくて、ふたたび会うまでの遠い約束”というものがあって、それがイヤに気になった時期が私はありました。まぁ、17歳の多感な時期に父親に死なれると死とか生きる意味みたいなのをどうしても考えざるを得ないんですね。どうどう巡りして終わりとわかっていても。

ある日本のお坊さんが娘が自殺してしまった両親にした説法で、「死ぬほど苦しみ悩んだ娘さんという主体は、もうありません」というようなものがあったと聞いたことがあります。キリスト教の信者である若いゲーム友達が「仏教はそこまでしか言えないんですよね」と言っていましたが、あなたの娘さんの苦しみは終わったと伝えることはかなり意味があることではないでしょうか。

子供のころ、死ぬと”この自分”というものがなくなると想像して眠れなくなるほどの恐怖を感じたことがあります。私のいまの感じだと死は”いつやってくるかわからないが、必ずくるもの”という感じです(ある種の救済措置のようにも感じています)。

塾で教えていて生徒になんかのはずみで、「わからないよ、センセイだってこの帰りに交通事故で死ぬかもしれないし」というようなことを言ったらかなり驚いた顔をしていたので、若者にとって死というものはまだ意識するようなことではないのかもしれません。

唯物論的な”死=終わり”ではなく、”死のあとに何かがある”ということが科学的な意味で証明されれば刹那的になりがちな世の中も、すこしはちがってくるのかなとも思います。

The Long and Winding Road to Satori

まず、悟りとは何かというと、涅槃寂静ということばで表現されているように、静かな心です。で、なぜ悟りを求めるかというと功利主義的には冷静な判断を下すためです。

激しい感情というのはポジティブであれネガティブであれ行動のエネルギーになったりして使いようがあるものの制御が非常に難しいです。

ヒリつくような快感というのも一度は経験してみるのも悪くないですが、強いドラッグと同じで追い求めすぎるとたぶん破滅がまっています。(そこらへんトランプ大統領がどういう心境で動いているのかとても興味深く思っています)

で、どのように他人を悟りへ近づけるかというと、たぶんAIとか色々なテクノロジーを使って脳の状態マップみたいなのが明示的に解析できて、こういう刺激を与えたらどういうマップの変化が起きるかみたいなシミュレーションをしたうえでないと、失敗したときの本人や周囲へのダメージがヤバすぎてやらないほうがいいというのが私の現在の感想です。

で、そういう悟りの心境への道は、各個人ごとにパーソナルなものであり、ヨガ体操の教室でいま行われているような、単純な授業形式のメソッドとして確立するのは非常に難しいと思っています。

スッタニパータとかダンマパダなんかの初期仏典を乱読したかぎり、釈迦は悟りを得た聖人はこういう状況ではこうふるまうとか、こういう心境でことにあたる、みたいな結果しか言っていないんですね。

で、ヘタに色欲をコントロールしようとして、女を絶ったりしていると、もともとゲイじゃなかった人がゲイになったり、小児性愛の傾向がなかったひとがペドファイルになるという倒錯がでてきたりしているのが、仏教界の歴史から見て取れます。

初期仏典を読む限り、釈迦のいっていることをやろうとすると、脳内の内部表現の書き換えをやるわけですから、間違うと、社会に壊滅的なダメージを及ぼす、とんでもない大悪人が出てくる可能性があります。

そういう意味で、私は自分の自己流のやり方を他人で試す気になれません。