釈迦と群

釈迦は弟子のバカさかげんを甘く見ていたと思います。

マハー・パリニッバーナ経に記述されているように、釈迦が死んだあとにすぐに遺骨の取り合いが起きているのでもわかります。

聖人とその弟子というインドでの伝統的な方法論をとってしまったのが運の尽き。

そして、釈迦レベルの聖者でもほんの数人がこの世にあらわれるくらいじゃ、世の中まったく変わらないだろうと思います。

そして宗教にしてしまうのではなく、あくまで哲学として広めないとよけいややこしくなるだけですね。

釈迦もいま世界中にある”仏教”という形で自分のさとりが伝わるのを望んでいたかというとそうではないと思うのですね、もっと”正しく”伝わってほしいという意図があったはずです。

で、釈迦の”さとり”自体も、あくまでそういうこの世の解釈系のひとつであって、他の解釈系も存在するだろうし、そっちのほうが良ければそっちでやればいいと思います。

べつに釈迦のさとりが唯一無二の”真理”だとは私は思っていません。


”人格”をブートストラップするには、核となる”この世の解釈系”が必要となり、それにしたがっていろいろな思考や行動をしている(ように人格は錯覚する)必要があります。

で、ふつうは社会通念みたいなのでうまく人格が立ち行くわけですが、身内の死とか、いきなりのリストラとか”理不尽”が起きると必死に人格はその”意味”をさがすわけです。で、この世の理不尽とか矛盾にぶちあたったときに、それでも人格として機能するためには、社会通念よりもっと根源的な”説明”が欲しくなります。それが哲学だったり宗教だったりするわけです。これはたぶん理不尽が多い芸能界で、”良い人”っぽい芸能人の多くが宗教に入っていることでもわかります。


ただ、人格の下にある、もっと根源的なもの、PCでいうBIOSレベルで、ある種の生き物としてハードワイアドにどこからか与えられた命令は、

”生きろ”

そして、個体としての自分は死ぬので、

”子孫を残せ”

これがあるだけだろうと思います。





所有感

お釈迦様は”無所有でイケ!”と教えられました。

で、所有感つまり、物を所有している感じですが、若いころテレビで見たことなので、すこし記憶違いとかあるかもしれません。

私はクンフー・スターといえばジャッキー・チェンより、ブルース・リーが好きなんですが、私が子供のころはジャッキーが全盛期でした。

で、テレビのジャッキー特集で、ジャッキーが香港の豪邸に数十台の高級車を所有していると紹介しているわけですが、本人は忙しすぎてほとんど車を運転する暇がなくて、なんか車のお世話係みたいな人がいると紹介していたわけです。

”これって、ジャッキーは所有している感じはちゃんと持てているのかな…”

”どっちかっていうとお世話係の人のほうが、ジャッキーの車について詳しそう…”

という素朴な感想をもちました。

今の日本に暮らしていると無所有というわけにはいかないですが、過度の所有感を物にいだくと、それが壊れたり、盗まれたら相当な心理的なダメージを受けてしまいますね。(物といえば身体もモノですね)

さらに言えば、所有感を人間関係や名声、技能など抽象的なものに対しても強くいだきすぎるとそれが損なわれたときにやっぱりかなりの心理的ダメージを受けることになりそうです。

なにかを所有しているから俺は偉いと思っていると、それが損なわれたときに心理的ダメージが来ます。

ドラマなんかで、天才ピアニスト少女が手を怪我して、もう一生ピアノを弾けなくなって、

「私にはピアノしかないのっ、私からピアノを取ったら何も残らないわっ!」

みたいな場面はありがちですが、そう思っている限りはその通りに感じられるのでしょうから、お気の毒だなと思います。

 




ヨガの聖者がなぜ最終的に山にこもることになるか

これはポエムです。また科学用語も私がフワッと理解しているフィーリングで書いています。

まず、複雑系という概念があります。

で、複雑系は初期値への鋭敏さや、”複雑”なだけあって、細部が異様に相互に結びついているので、

”ここに問題があるな、この部分’だけ’を修正しよう”

こういう態度は、複雑系を扱うときは必ず予期せぬ副作用が他で表れて、かえって問題が拡大したり、もっと大きな別の問題が発生したりします。

ただ、観察者にとって、ある複雑系が、全体としてまずまずの良い状態とか、悪い状態とかは主観的ではありますがあるはずです。

私がヨガをやってて、もっていた疑問のひとつは、

”聖者と言われている人が複数いた。なぜ聖者は社会に手を突っ込んで’良く’しなかったのだろうか…”

今の私の理解では、

”社会に手を突っ込んで’悪い部分だけを改善する’というのは至難の業”

ということを理解し、へたにいじくらないのも聖者の態度であると自重していたのだろうと、結果として山にこもることになったのかなと思っています。