バガヴァッド・ギーターのメッセージ

Wikipediaより


バガヴァッド・ギーターは、700行(シュローカ[1]韻文詩からなるヒンドゥー教聖典のひとつである。ヒンドゥーの叙事詩マハーバーラタにその一部として収められており、単純にギーターと省略されることもある。ギーターとはサンスクリットで詩を意味し、バガヴァン英語版の詩、すなわち「神の詩」と訳すことができる。


私なりになんどかバガヴァッド・ギーターを読んで受け取ったメッセージは、

「なすべきことをなせ」

並列コンピュータの個々のCPUみたいに、個々人が自分がなすべきだと感じたり、考えたりしたことをやれば、当然、衝突することもあるでしょう、しかし、
個々の人々がなすべきだと(なるべくなら私心無く)感じたことをやった結果がどうであれ、それはしかたがないことである。

その結果はだれのせいというわけではなく、人類がだした演算結果として受け入れざるを得ないというのが私の最近の感慨です。

諸法無我とアートマン

釈迦はというものはないといいました。それが諸法無我

ヨガでは、アートマン(真我)というものを想定しています。

で、私は正直、我があるかないかは、どうでもいいなぁと思っていました。


ヨガの文献で、”何者をもあなたのアートマンを棄損することはできない”なんて読んだことがあるんですが、その言わんとしていることが最近はなんとなくわかるような気がします。


あえて、図形的にたとえると、理想の我というのは点でしょうか。

で、点というのは、面積がないわけでほんとうは平面上で見えるはずがないんですね。

でも、点というものを想定することはできる。で、点の集合として図形とかも想定できるし、そういう意味では点はあるとも言えます。

で、この我があからさまに、でかい円になっている人が多くいます。つまり面積をもっているわけです。その面積には、”私は美しい”、”私は賢い”、”私は生まれが良い”とか、いろいろ抱え込んでいるわけです。で、そういう肥大した自我という円からなんらかのご自慢の属性が削られたり、ケリを入れられたりすると(つまり敬意が払われていないと感じると)苦痛とか怒りとして感じられるわけです。

で、それじゃ辛いだろうから、我というのは無いと考えよというのが釈迦で、アートマンは面積がないんだから、削られたりする苦痛もないはずというのがヨガかなと思います。


もしかしたら、こういうたとえはすでに誰かがしていて、私がそれを読んだりしたのを忘れてしまっているだけかもしれません。




釈迦と群

釈迦は弟子のバカさかげんを甘く見ていたと思います。

マハー・パリニッバーナ経に記述されているように、釈迦が死んだあとにすぐに遺骨の取り合いが起きているのでもわかります。

聖人とその弟子というインドでの伝統的な方法論をとってしまったのが運の尽き。

そして、釈迦レベルの聖者でもほんの数人がこの世にあらわれるくらいじゃ、世の中まったく変わらないだろうと思います。

そして宗教にしてしまうのではなく、あくまで哲学として広めないとよけいややこしくなるだけですね。

釈迦もいま世界中にある”仏教”という形で自分のさとりが伝わるのを望んでいたかというとそうではないと思うのですね、もっと”正しく”伝わってほしいという意図があったはずです。

で、釈迦の”さとり”自体も、あくまでそういうこの世の解釈系のひとつであって、他の解釈系も存在するだろうし、そっちのほうが良ければそっちでやればいいと思います。

べつに釈迦のさとりが唯一無二の”真理”だとは私は思っていません。


”人格”をブートストラップするには、核となる”この世の解釈系”が必要となり、それにしたがっていろいろな思考や行動をしている(ように人格は錯覚する)必要があります。

で、ふつうは社会通念みたいなのでうまく人格が立ち行くわけですが、身内の死とか、いきなりのリストラとか”理不尽”が起きると必死に人格はその”意味”をさがすわけです。で、この世の理不尽とか矛盾にぶちあたったときに、それでも人格として機能するためには、社会通念よりもっと根源的な”説明”が欲しくなります。それが哲学だったり宗教だったりするわけです。これはたぶん理不尽が多い芸能界で、”良い人”っぽい芸能人の多くが宗教に入っていることでもわかります。


ただ、人格の下にある、もっと根源的なもの、PCでいうBIOSレベルで、ある種の生き物としてハードワイアドにどこからか与えられた命令は、

”生きろ”

そして、個体としての自分は死ぬので、

”子孫を残せ”

これがあるだけだろうと思います。