紙の製造工程を植物由来の宇宙人に見せたらマジ切れ

まぁ、星新一さんのショートショートにそういうのがあったなと…

星 新一(ほし しんいち、本名:星 親一1926年大正15年)9月6日1997年平成9年)12月30日)は、日本小説家SF作家
父は星薬科大学の創立者で星製薬の創業者・星一森鴎外は母方の大伯父にあたる。本名の親一は父・一のモットー「親切第一」の略で、弟の名前の協一は「協力第一」の略。父の死後、短期間星製薬の社長を務めたことがあり、日本の有名作家としては辻井喬こと堤清二西友社長)と並んで稀有な東証一部上場企業(当時)の社長経験者である(ただし、堤の場合は西友の経営参加や上場よりも創作活動が遙かに先行しており、星の場合は完全に経営を離れたのちに創作活動が始まっている)。
豊富な作品量でありながら、それでいてどの作品も質の高さを兼ね備えていたところから「ショートショート掌編小説)の神様」と呼ばれているが、『明治・父・アメリカ』、父親や父の恩人花井卓蔵らを書いた伝記小説『人民は弱し 官吏は強し』などのノンフィクション作品もある。小松左京筒井康隆と共に「SF御三家」と呼ばれる[3]

Wikipedia 星新一

私はたぶん星新一さんのショートショートは私が大学生の頃手に入るものは全部読んだことがあると思います。まぁ、中学だか高校の教科書にもひとつ作品が掲載されていました。

日本SF御三家でいうと、筒井康隆先生の作品もほとんど全部読んでいます。なぜか分からないですけど、小松左京さんの作品はたぶん一切読んでないと思います。

この乞食がッ!!

という批判とか蔑み(さげすみ)、罵倒は仏教僧には効かないというか…

まず、乞食(コジキ)という言葉自体が、釈迦が弟子にやらせた乞食行(こつじきぎょう)から出てきているからですね。わかってて乞食をやっているわけです。批判蔑み上等でやっているし、じっさいにいろいろなイヤな目にあうこと自体が修行です。


タイの仏教僧が托鉢でもらえるフライドチキンとかを食いすぎて結構な数の僧侶が糖尿病とかの生活習慣病になっていると聞いたとき、

「コイツらバカかな…、必要なだけ食うなりもらうなりして節制すりゃいいだろ…」

と思いました。(釈迦の弟子を名乗るならもう少しシャンとしなさいという…)


ちなみに私の記憶が正しければ、日本では乞食行為はたしか禁止する法律があったはずです。まぁ、わたしも乞食はイカんだろとおもいます…

でです、仏教じゃなくヨガのほうの話なんですが、ヨガでそこそこ人気のある先生が「日本の金持ちは寄付をしてくれなくて…」みたいに嘆いて見せてたのを見たことあるんですが、

「人が苦労して稼いだカネをそうそう簡単にもらえると思ってんじゃねぇーよ、このコジキが!!」

というのが私のそのときの正直な感想でした(まぁ、例によって言わないんですけど…)

自分は良いことしているし、良いことに使おうとしているから、だれか金持ちがお金を恵んでくれるはずっていう、私からすると甘っちょろい考えには正直イライラします。じぶんで、売春するなり、土方するなり血を流して稼いでみろよと思います。

寄付を集めることについて

インタビュー】托鉢僧には暴力団関係者が紛れている場合も!? イカサマ僧侶の正体は… 狡猾すぎる「托鉢シノギ」の実態!

TOCANA 好奇心の扉 トカナ

信仰それじたいに意味がある

私は残念ながら信仰はもちあわせていません。いろいろ考えすぎる性格が災いしているとおもいます。バガバットギーターで述べられているヨガにおける修行方法の分類で敬愛のバクティ・ヨーガや無私のカルマ・ヨガなどあるなかで、理屈を突き詰めるニャーナ・ヨーガを自分では気が付かずにやっている状態だと自己分析します。

聖者と言われている人なんかが、信仰の対象に敬愛をささげるバクティ・ヨーガは非常に価値があるものだと言っていたのを文献とかで読んでいたんですが、正直なぜバクティ・ヨーガがそれほど重要なのかが理解できませんでした。

結論から言うと、バクティ・ヨーガが重要なのは自分の(論理的思考とかでなく)感情エネルギーを信仰対象に注ぐことで精神が安定するからだなといま気が付きました。敬愛をささげる対象は神仏とか歴史上の偉人とか社会的にほぼ問題のない対象ならなんでも良いのですが、信仰心それ自体が心の平和を促進する作用があります。

愛、慈悲、空

以前、ヨガの理論面での先生に個人的に授業の感想のメールを送って、返ってきた返事のメールに「けっきょく、愛ですよね愛」みたいな文言があって、アレ?と私は思いました。

仏教では、肉欲につながる”愛”と強者から弱者への慈悲としての”愛”を区別して扱います。で、愛欲はほどほどにどんなものか楽しめばいいと思いますが、ハメをはずすとクソみたいな事態になりますね。で、もう一方の慈悲はたしかに人間社会では価値あるものだと思いますが、それも残念ながら地球上で繁栄した人類という生き物に特有の価値観だと思います。とはいえ、私も人間ですので慈悲の心を持ちたいものだと思っています。

そういう上辺をとりはらった、この世の核となるナニカもしくはそのナニカの状態を表す概念としてはやはり空(クウ)なのではないかと思います。といいつつ、空とはなんなのかはわかりませんが(笑)

インナースマイル?

こんな顔で最近はすごしています。
ヨガにはインナースマイルという概念があって、まぁ、自然な笑顔が出ない生活はよろしくないでしょうというようなことです。

私はとくに携帯の代理店の女性とか、女性の看護師さんと接しているときによけいヘラヘラしますね。

人類にワンチャンスあるとすれば…

以下はいつにもましてポエム&妄想です

理系のロマンである量子力学と数式には触れずに(まだ完全に思い出していないので…)戯れていますが…

まぁ、二重スリット実験が面白んですが、

“あの”フォン・ノイマン博士が、抽象的自我なんて口走ったという…

結果からいうと、ある種の自我意識が物質界と相互関係がある可能性もしくは解釈が可能かなぁという…

でです、この世の自我あるもののネガティブな想念とポジティブな想念の総量を比べて、ネガティブが勝っていれば世間もネガティブな方向に向かうとか(逆もそう)が科学的に証明されれば、どんな貧乏人の意識状態にも心を配らざるを得ないという事態が出現します。

つまり、不満や鬱屈をためているひとが多くいれば、人類全体に悪い影響をあたえると科学的に証明できれば人類みな兄弟てきなハッピーな展開も期待できるかなと…

 

バガヴァッド・ギーターのメッセージ

Wikipediaより


バガヴァッド・ギーターは、700行(シュローカ[1]韻文詩からなるヒンドゥー教聖典のひとつである。ヒンドゥーの叙事詩マハーバーラタにその一部として収められており、単純にギーターと省略されることもある。ギーターとはサンスクリットで詩を意味し、バガヴァン英語版の詩、すなわち「神の詩」と訳すことができる。


私なりになんどかバガヴァッド・ギーターを読んで受け取ったメッセージは、

「なすべきことをなせ」

並列コンピュータの個々のCPUみたいに、個々人が自分がなすべきだと感じたり、考えたりしたことをやれば、当然、衝突することもあるでしょう、しかし、
個々の人々がなすべきだと(なるべくなら私心無く)感じたことをやった結果がどうであれ、それはしかたがないことである。

その結果はだれのせいというわけではなく、人類がだした演算結果として受け入れざるを得ないというのが私の最近の感慨です。

諸法無我とアートマン

釈迦はというものはないといいました。それが諸法無我

ヨガでは、アートマン(真我)というものを想定しています。

で、私は正直、我があるかないかは、どうでもいいなぁと思っていました。


ヨガの文献で、”何者をもあなたのアートマンを棄損することはできない”なんて読んだことがあるんですが、その言わんとしていることが最近はなんとなくわかるような気がします。


あえて、図形的にたとえると、理想の我というのは点でしょうか。

で、点というのは、面積がないわけでほんとうは平面上で見えるはずがないんですね。

でも、点というものを想定することはできる。で、点の集合として図形とかも想定できるし、そういう意味では点はあるとも言えます。

で、この我があからさまに、でかい円になっている人が多くいます。つまり面積をもっているわけです。その面積には、”私は美しい”、”私は賢い”、”私は生まれが良い”とか、いろいろ抱え込んでいるわけです。で、そういう肥大した自我という円からなんらかのご自慢の属性が削られたり、ケリを入れられたりすると(つまり敬意が払われていないと感じると)苦痛とか怒りとして感じられるわけです。

で、それじゃ辛いだろうから、我というのは無いと考えよというのが釈迦で、アートマンは面積がないんだから、削られたりする苦痛もないはずというのがヨガかなと思います。


もしかしたら、こういうたとえはすでに誰かがしていて、私がそれを読んだりしたのを忘れてしまっているだけかもしれません。

釈迦と群

釈迦は弟子のバカさかげんを甘く見ていたと思います。

マハー・パリニッバーナ経に記述されているように、釈迦が死んだあとにすぐに遺骨の取り合いが起きているのでもわかります。

聖人とその弟子というインドでの伝統的な方法論をとってしまったのが運の尽き。

そして、釈迦レベルの聖者でもほんの数人がこの世にあらわれるくらいじゃ、世の中まったく変わらないだろうと思います。

そして宗教にしてしまうのではなく、あくまで哲学として広めないとよけいややこしくなるだけですね。

釈迦もいま世界中にある”仏教”という形で自分のさとりが伝わるのを望んでいたかというとそうではないと思うのですね、もっと”正しく”伝わってほしいという意図があったはずです。

で、釈迦の”さとり”自体も、あくまでそういうこの世の解釈系のひとつであって、他の解釈系も存在するだろうし、そっちのほうが良ければそっちでやればいいと思います。

べつに釈迦のさとりが唯一無二の”真理”だとは私は思っていません。


”人格”をブートストラップするには、核となる”この世の解釈系”が必要となり、それにしたがっていろいろな思考や行動をしている(ように人格は錯覚する)必要があります。

で、ふつうは社会通念みたいなのでうまく人格が立ち行くわけですが、身内の死とか、いきなりのリストラとか”理不尽”が起きると必死に人格はその”意味”をさがすわけです。で、この世の理不尽とか矛盾にぶちあたったときに、それでも人格として機能するためには、社会通念よりもっと根源的な”説明”が欲しくなります。それが哲学だったり宗教だったりするわけです。これはたぶん理不尽が多い芸能界で、”良い人”っぽい芸能人の多くが宗教に入っていることでもわかります。


ただ、人格の下にある、もっと根源的なもの、PCでいうBIOSレベルで、ある種の生き物としてハードワイアドにどこからか与えられた命令は、

”生きろ”

そして、個体としての自分は死ぬので、

”子孫を残せ”

これがあるだけだろうと思います。


ヨガの聖者がなぜ最終的に山にこもることになるか

これはポエムです。また科学用語も私がフワッと理解しているフィーリングで書いています。

まず、複雑系という概念があります。

で、複雑系は初期値への鋭敏さや、”複雑”なだけあって、細部が異様に相互に結びついているので、

”ここに問題があるな、この部分’だけ’を修正しよう”

こういう態度は、複雑系を扱うときは必ず予期せぬ副作用が他で表れて、かえって問題が拡大したり、もっと大きな別の問題が発生したりします。

ただ、観察者にとって、ある複雑系が、全体としてまずまずの良い状態とか、悪い状態とかは主観的ではありますがあるはずです。

私がヨガをやってて、もっていた疑問のひとつは、

”聖者と言われている人が複数いた。なぜ聖者は社会に手を突っ込んで’良く’しなかったのだろうか…”

今の私の理解では、

”社会に手を突っ込んで’悪い部分だけを改善する’というのは至難の業”

ということを理解し、へたにいじくらないのも聖者の態度であると自重していたのだろうと、結果として山にこもることになったのかなと思っています。