全知全能の神はいるのか

まぁ、全知全能の神がいるとします。すると矛盾がでてくるんですね。

全能の逆説というらしいです。

全知全能の神が、

「どんな矛も防ぐ盾を出すよ、ほぃっ」

スポポ~ン 無敵の盾登場

「どんな盾も貫く矛をだすよ、ほぃっ」

スポポ~ン 無敵の矛登場

市民1「じゃぁ、神様、その矛でその盾を突いてみたらどうなりますか?」

これは矛盾ですが、私はいままで50年近く生きてきて矛盾を抱えていない人って見たことないんですが、それは置いといて、たとえば、無敵の矛で無敵の盾を突いたとします。ちょっと思いつくのは、

”矛盾なので世界そのものが消える”

こんなんどうでしょう、結果が出ないというのが正解のひとつではないでしょうか?

神様「あれ、面白くないねぇ~、じゃ、無敵の盾と無敵の矛を対決させても、世界が消えないようになぁ~れ!!ほぃっっと」

そしてまた、無敵の矛と無敵の盾を対決させます…

市民A「いくぞ~、そりゃ!」

”こんどは、世界は消えないが、時間が永遠に止まる”

などなど…

複雑系のこととかをちょっと読んだり、量子力学の二重スリット実験のことを読んだりして、いかに矛盾を内包した系を説明するかって大切なんだろうなぁと思っています。

 

この世のすべては虚妄である

たとえば、私のお姉ちゃんの例を出しますと、旅先で魚料理をおいしく食べたそうです。で、食後に旅館の人と話していて、さっき食べた魚が実はフナだったと分かっとたんに、気分が悪くなってしまったそうです(姉はフナを食べるのは気持ち悪く感じられて嫌いだそうです)。

「あぁ、さっきの魚はフナですよ」

この言葉が、姉の脳で解釈された結果、身体に異常を生じさせるほどの威力を発揮したのです。

他の例では、最近は映像の分野としてスプラッターものがあります。

で、思考実験ですが、「スプラッター風味のスリラー映像です」ということわりを最初にした後で少しグロい殺人の場面がある映像を被験者に視聴していただきます。

で、その映像を”楽しんだ”人たちが一定数いるとします。

その人たちに、「申し訳ないですけど、あれ、本当にあった殺人事件が偶然録画されたものなんです」といったら、やっぱりその人たちは激しい拒絶反応を起こすのではないでしょうか。

「ホントウとウソの区別は本当にそんなに明確なものですか?」

私のお気に入りのお釈迦様は、「この世のすべては虚妄である」と断言しています。

 

 

とはいうものの、私が死んだ後…

「じゃ~ん、今のは最新体験型のゲームだったんですけど、いかがでした?」

とあの世で言われたら、さすがの私もその人を殴ってしまうかもしれません(笑)

 

「数式ということばじゃないと正しく伝わらない」問題

趣味で、初期仏典や聖書、コーラン、ヨガのギータなんかを乱読しているんですが、やはり自然言語によっていかに良いことを伝えようとしても、千年もすると(故意かどうかは微妙ですが)すっかり内容と逆のことを読み手が勝手にやりだすという事例を多く見聞きします。

たとえば、釈迦は「異性関係は人間の生殖にかかわる本質的な欲望なので、むやみに淫らにならないように、(男性の弟子が多かったので)女性には気を付けろ」というようなことを折にふれて語っていたり、「肉を食うからなまぐさと言うのではない、友人のカミさんと陰で一発やってそ知らぬふりをしているのを生臭というのである」なんて言ったりしています。

これが数千年たって、仏教がインドから中国、さらに日本へとくると何が起こったかと言うと…

「異性関係は気を付ける」→「女はやばいらしい」→「女とヤるのはよそう」→「男とヤればいい」

なんでだよ(笑)wwwwwwwwwww

たとえば、日本の寺関係の隠語で「幼い小僧」への性的表現がかなりあるとか、仏教僧を紹介する書物で、「この僧は女性との性関係をもたなかった、さらに男性との性関係ももたなかった」ということが”珍しい人”として紹介されていたり。

またキリスト教でもアメリカでカソリックの神父による幼児への性的虐待が社会問題になっていてバチカンはたしか総額数千億レベルの訴訟を抱えていると聞きました。

残念ながら、釈迦、イエス・キリスト、ムハンマドなど名だたるセイント(聖人)たちは、失敗したと言わざるを得ません。

釈迦だって、大悟をしたあと一度はそのまま死ぬ気だったのですが、まぁ、神話的表現にあえてしてますが、梵天に請われて世に「我は仏陀である」と大見得をきって宣言して、「人々の苦を滅しよう」という意図を持ったはずです。

だいたい、釈迦などがいう煩悩のコントロールは、よく釈迦本人も「激流を泳いで渡るほど難しい」と自分で言っていますし、「煩悩の激流を渡りきるものは数少ない」と言っています。

しかし、いったん社会的リーダーになろうと決意したのなら、所定の訓練をつめば、ほぼ九割以上の人が煩悩のコントロールができるようになるような訓練メソッドを残して、その結果、人類が戦争をしなくなったというような”結果”が欲しかったところです。

「激流渡り水泳スクール」っていって生徒を集めていて、激流を渡れるようになるのはほんの数人っていうのは許されないと思います。

みなさんにおなじみの日本の仏教者で一休さんという方がおられました。

その一休さんは、次のような言葉を残しておられます。

「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」

まさに、私の感想もこの句につきます。

なぜなら、インドでは今、ヒンドゥーが支配的な宗教ですが(不可触民に仏教を広めている日本人の方がおられますが)、じゃ、仏教徒はどうなったのかというと、釈迦の没後数百年に、ヒンドゥー教徒による仏教徒の虐殺が起こっているんですね。また、最近ではミャンマーの仏教徒からのロヒンギャへのひどい虐待の問題なんかもあります。

「お釈迦様、あんた、問題解決するどころか、ぶっちゃけ問題を増やしたんじゃないんか?」


これらセイントの失敗のひとつは、聖典が情緒的な自然言語によって記されたことが原因の一つだと思います。

そこへいくと、数学のたとえばユークリッド幾何学なんて数千年たってますが、根底から覆されることはありませんでした。リーマン幾何学などの前提条件を変えたさらなる発展はあり、それはそれで実り多い発展をしましたが、いまだにユークリッド幾何学はほぼ万人に正しく解釈、理解されてその正しさに挑戦して成功した人はおりません。

また、数学はゲーデルの不完全性定理により、己の限界さえもきっちりと示しています。

いま私はこれらの、「数式もしくは形式言語でなにか言わないと、バカが曲解する問題」をちらほらと折にふれて考えています。