この乞食がッ!!

という批判とか蔑み(さげすみ)、罵倒は仏教僧には効かないというか…

まず、乞食(コジキ)という言葉自体が、釈迦が弟子にやらせた乞食行(こつじきぎょう)から出てきているからですね。わかってて乞食をやっているわけです。批判蔑み上等でやっているし、じっさいにいろいろなイヤな目にあうこと自体が修行です。


タイの仏教僧が托鉢でもらえるフライドチキンとかを食いすぎて結構な数の僧侶が糖尿病とかの生活習慣病になっていると聞いたとき、

「コイツらバカかな…、必要なだけ食うなりもらうなりして節制すりゃいいだろ…」

と思いました。(釈迦の弟子を名乗るならもう少しシャンとしなさいという…)


ちなみに私の記憶が正しければ、日本では乞食行為はたしか禁止する法律があったはずです。まぁ、わたしも乞食はイカんだろとおもいます…

でです、仏教じゃなくヨガのほうの話なんですが、ヨガでそこそこ人気のある先生が「日本の金持ちは寄付をしてくれなくて…」みたいに嘆いて見せてたのを見たことあるんですが、

「人が苦労して稼いだカネをそうそう簡単にもらえると思ってんじゃねぇーよ、このコジキが!!」

というのが私のそのときの正直な感想でした(まぁ、例によって言わないんですけど…)

自分は良いことしているし、良いことに使おうとしているから、だれか金持ちがお金を恵んでくれるはずっていう、私からすると甘っちょろい考えには正直イライラします。じぶんで、売春するなり、土方するなり血を流して稼いでみろよと思います。

寄付を集めることについて

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TOCANA 好奇心の扉 トカナ

信仰それじたいに意味がある

私は残念ながら信仰はもちあわせていません。いろいろ考えすぎる性格が災いしているとおもいます。バガバットギーターで述べられているヨガにおける修行方法の分類で敬愛のバクティ・ヨーガや無私のカルマ・ヨガなどあるなかで、理屈を突き詰めるニャーナ・ヨーガを自分では気が付かずにやっている状態だと自己分析します。

聖者と言われている人なんかが、信仰の対象に敬愛をささげるバクティ・ヨーガは非常に価値があるものだと言っていたのを文献とかで読んでいたんですが、正直なぜバクティ・ヨーガがそれほど重要なのかが理解できませんでした。

結論から言うと、バクティ・ヨーガが重要なのは自分の(論理的思考とかでなく)感情エネルギーを信仰対象に注ぐことで精神が安定するからだなといま気が付きました。敬愛をささげる対象は神仏とか歴史上の偉人とか社会的にほぼ問題のない対象ならなんでも良いのですが、信仰心それ自体が心の平和を促進する作用があります。

愛、慈悲、空

以前、ヨガの理論面での先生に個人的に授業の感想のメールを送って、返ってきた返事のメールに「けっきょく、愛ですよね愛」みたいな文言があって、アレ?と私は思いました。

仏教では、肉欲につながる”愛”と強者から弱者への慈悲としての”愛”を区別して扱います。で、愛欲はほどほどにどんなものか楽しめばいいと思いますが、ハメをはずすとクソみたいな事態になりますね。で、もう一方の慈悲はたしかに人間社会では価値あるものだと思いますが、それも残念ながら地球上で繁栄した人類という生き物に特有の価値観だと思います。とはいえ、私も人間ですので慈悲の心を持ちたいものだと思っています。

そういう上辺をとりはらった、この世の核となるナニカもしくはそのナニカの状態を表す概念としてはやはり空(クウ)なのではないかと思います。といいつつ、空とはなんなのかはわかりませんが(笑)