他人に卑しさを見たときは

その見立て通りその人が卑しい心の動きで動いていることもありえますが、

あなた自身が卑しいこころの動きを持っているから、それを他人の中に見ているだけという可能性も十分あり得ます。

Do not judge, or you too will be judged.  For in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you.

Why do you look at the speck of sawdust in your brother’s eye and pay no attention to the plank in your own eye? How can you say to your brother, ‘Let me take the speck out of your eye,’ when all the time there is a plank in your own eye?  You hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother’s eye.

信じることの不可思議な力

格闘技システマの指導者(元傭兵か軍人)の言葉だったと思うのですが、信仰がある傭兵のほうが体感では生存率が高かったということを聞いたことがあります。

その信じる力の不思議さは私も最近体験していて、まぁ、たんなるコンピュータ・ゲーム攻略での話にまでいっきに格が落ちますが(笑)。

Darksouls3というゲームを去年プレイしていました。アクションRPGでプレイヤーは死んで攻略法を見つけていくという”死にゲー”と言われるジャンルの本流の作品です。

で、私も何度も死にながら、どうにかこうにかゲームを進めていったのですが、どうしても、ラスボスのひとつ前のボス(兄弟二人を倒さなければならない)が倒せない。

ここで、私の基本信念は”RPGの敵はこちらのキャラのレベルを十分上げていればいずれ勝てる”です。これはゲーマーとしてRPGをプレイしてきたことからくる信念です。

でも、はっきりいって10レベルくらい上げたって、自分のキャラクターは数値的にはそんなに強くなっているとは思えないんですね。

とはいえ、この”レベルを上げることによるキャラの強化”を信じてコツコツレベルを上げるわけです。その間に何度も当該ボスにもチャレンジして討ち死にしています。

ここらへんで、試行錯誤が発生して、Youtubeで当該ボスの撃破動画を検索して参考にしたりしだします。

私のキャラクターは重装甲で防御し、巨大な両手斧の大ダメージを、殴られながら叩き込んでいくという、タコ八郎師匠のボクシング現役時代のような戦法でした。

今でも面白い現象だと思うのは、魔法使い系のキャラクターによる攻略動画で、布の服を着て一撃もくらわずにそのボス敵を倒している人のものを見たとき、”自分もできそう”と思ったんですね。

”なるほど、一撃も食らわないんだから鎧を着たりする必要もないのか”

と考えて、乞食みたいな恰好をして回避性能を上げてプレイしだして数十回当該ボスに挑んで、あと3発攻撃を当てれば倒せていたというところまでいきました。

“できそう”と思って信じて練習していると実際にできる方向に物事がすすんでいくこの感じは面白いなとおもいます。

結局、最終的には、普通の人がレベル80前後で攻略するところを私のキャラクターはレベル130くらいにまでなっていて、装備は中程度の防御と巨大両手斧でクリアできました。

善悪はファッション:だが善をもとめずにはいられない

いつごろからか、善悪の判断って時代によってもかなりちがってくるし、文化や状況によっても色々ちがいがあるなと感じていました。

結論から言うと、宇宙全部に共通する善悪なんてないのだろうな… 今ではそう思っています。生物としての善があるとするなら個体もしくは種族の繁栄につながるようなことを”善”ととらえざるを得ないでしょうと思っています。

たとえば、(奴隷制度が普通だった時代に)「万学の祖」であるアリストテレスは奴隷制度擁護論を書いています。また、ニーチェの「善悪の彼岸」なんてのもあります。


Wikipedia “善悪の彼岸“より

過去の哲学者たちが道徳性について考察するときに、批判的感覚が欠けていた疑いがあることと、とりわけキリスト教の諸前提を盲目的に受け入れていたことを、ニーチェはこの『善悪の彼岸』で非難している。


私:”この感じはファッション(服装)に似ているな…”

(ファッションも時代や文化によって左右されます。)

たとえば、私がいま日本において公道でいきなり知らない人に殴り掛かれば警察のお世話になりますし、これはどう考えても悪でしょう。

同様に、究極のファッションとして全裸で公道を歩けばやっぱり警察のお世話になります。全裸はとてもイケてるファッションとは言えないでしょう。


しかし、こんな単純な暴力の善悪でさえ色々な状況しだいであって、たとえば戦場では敵兵を殴るぐらいじゃすまなくて、殺しに行かなければこちらがやられてしまいます。

あるインターネット動画で、中東に派遣された米兵とおもわれる人が、かわいい子犬を笑いながら崖下へ投げ捨てていました。これはインターネットで炎上して当人もかなり責められたのではないでしょうか。

ただ、戦場で子犬の命を大切に思うような気持ちをキープしたまま、自分と同類の人間を殺せるでしょうか。自分と同類の人の命も軽く思えるようないわゆる”戦場ハイ”とでも言える心理状態でなければ、おそらく人格が保てないのではなかろうかと思います。

戦場における善悪(ファッション)はおのずと日常と違わざるを得ない。


ある状況・文化・時代でいわゆる悪とされていることをやればいろいろなペナルティがあるでしょう。

同様に、その環境などで受け入れられないファッションをするのはやはりいろいろな問題が起きたり不愉快な思いをすることになるのではないでしょうか。

先進国なんかでごく普通に育てば、だいたいの人の心には”良心”や”罪悪感”というものがインストールされるはずです(ファッション・センスですね)。それ以外のたとえば戦乱に苦しむ国でも我々には受け入れがたいかもしれない”良心”や”罪悪感”が育つはずです。(例えば子供はできるだけたくさんの金品を盗んで親に渡すのが親孝行(善)と考えるとか)

このいろいろな種類・形があるその人なりの”良心”に反することをしすぎると人格が荒れて結果として自分が内的、外的に種々のダメージをうけるわけです。

ここでいう良心ももちろんファッション・センスの良さ・好みでしかありえず、部外者から見ると奇妙に感じられるものかもしれません。ただ本人にとってはやはり大事です。むりにヘンテコリンなファッションをすれば自分の心にストレスがかかるのと一緒で、自分の人格に組み込まれた良心に気を使わざるを得ない。


いまから千年後にタイムスリップして、何気なしにゴキブリをスリッパで叩き潰したとします。千年後の未来では目に見える生命を極力尊重するという文化だったとしたら、それを目撃した未来人たちはあまりのショッキングなできごとに気絶するかもしれません。場合によっては警察に拘束されたり。


じゃ、良心や罪悪感が人格にインストールされていない人(ファッション・センスの好悪がない人)っているのかといえば、最近流行りのサイコパスの人たちがそうなのかなと思います。

善(良いファッション)を求めるのは自分の心と身体の平和のためだろうなということです。

雑然と頭に浮かんだことを書いたので、また整理・加筆します。