非暴力不服従

ガンジーは一発芸

非暴力不服従という戦い方について、先日亡くなられた西部邁先生が以前、

「ああ、日本が非暴力不服従で行くっていうなら、私はそれに従いますよ、でもね、本当にできるんですか、みなさん?」

みたいな意見をテレビでおっしゃっていました。西部先生はwikipediaによると若いとき吃音だったらしく、たぶん屈辱とはどういうものかをご存じの方だったと推測します。

私はほぼ同じ意見だったので記憶に残っていたわけですが、自分の言っていることの結果として何が起こりえるかという想像力に欠けた人があまりにも多いという無力感にさいなまれることが私もたまにあります。

死はかならずしも悪いものとはいえない

と言うと、エッとなりますよね。でも、私は死んだらどうなるかはいまは分からないと思っています。科学的な思考をたどっても可能性として死後になにかあってもおかしくないといまは思っています。(まぁ、その裏付けみたいなのは量子力学の二重スリット実験における意識の問題です。これを書くにあたり、また飲茶さんのサイトを読み直すつもりでしたが、見切り発車してしまいました)

その”何か”とは何なのか残念ながらわかりません。

薬師丸ひろ子さんの「セーラー服と機関銃」の歌詞に”さよならは、別れのことばじゃなくて、ふたたび会うまでの遠い約束”というものがあって、それがイヤに気になった時期が私はありました。まぁ、17歳の多感な時期に父親に死なれると死とか生きる意味みたいなのをどうしても考えざるを得ないんですね。どうどう巡りして終わりとわかっていても。

ある日本のお坊さんが娘が自殺してしまった両親にした説法で、「死ぬほど苦しみ悩んだ娘さんという主体は、もうありません」というようなものがあったと聞いたことがあります。キリスト教の信者である若いゲーム友達が「仏教はそこまでしか言えないんですよね」と言っていましたが、あなたの娘さんの苦しみは終わったと伝えることはかなり意味があることではないでしょうか。

子供のころ、死ぬと”この自分”というものがなくなると想像して眠れなくなるほどの恐怖を感じたことがあります。私のいまの感じだと死は”いつやってくるかわからないが、必ずくるもの”という感じです(ある種の救済措置のようにも感じています)。

塾で教えていて生徒になんかのはずみで、「わからないよ、センセイだってこの帰りに交通事故で死ぬかもしれないし」というようなことを言ったらかなり驚いた顔をしていたので、若者にとって死というものはまだ意識するようなことではないのかもしれません。

唯物論的な”死=終わり”ではなく、”死のあとに何かがある”ということが科学的な意味で証明されれば刹那的になりがちな世の中も、すこしはちがってくるのかなとも思います。