数学的帰納法の面白さ

まず、あなたが自然数一般(1, 2, 3, …)nについて成り立ちそうな何らかの等式を思いついたとします。でも、ラマヌジャンのようにそれは天から降ってきたようなもので、左辺と右辺をいくら式変形していじくっても左辺=右辺の正しさを証明できそうもない…

で、とりあえず、n=1のときは成り立つのを手計算で確認します。おしおし、やっぱり正しいかもしれない…ということで、仮にn=kのときにその等式はなりたつものと勝手に仮定します。この勝手に仮定した結果としての等式を道具として、n=k+1のときにも等式が成立することを示すことができたとします。

そうするとn=k=1のときは等式は成り立つので、n=k+1=1+1=2のときも成り立ってというふうに、バララララ~とすべての自然数についての証明ができてしまうという…

私はこの勝手に仮定してしまって、さらにそれを基礎としてk+1の場合を考える感じがすごく面白いと思っています。

愛、慈悲、空

以前、ヨガの理論面での先生に個人的に授業の感想のメールを送って、返ってきた返事のメールに「けっきょく、愛ですよね愛」みたいな文言があって、アレ?と私は思いました。

仏教では、肉欲につながる”愛”と強者から弱者への慈悲としての”愛”を区別して扱います。で、愛欲はほどほどにどんなものか楽しめばいいと思いますが、ハメをはずすとクソみたいな事態になりますね。で、もう一方の慈悲はたしかに人間社会では価値あるものだと思いますが、それも残念ながら地球上で繁栄した人類という生き物に特有の価値観だと思います。とはいえ、私も人間ですので慈悲の心を持ちたいものだと思っています。

そういう上辺をとりはらった、この世の核となるナニカもしくはそのナニカの状態を表す概念としてはやはり空(クウ)なのではないかと思います。といいつつ、空とはなんなのかはわかりませんが(笑)

人間の価値

私は根底においてはニヒリスト(仏教的には空論者ですが、無と空が同一なのかはまだ確信がないです)なので、すべてのことに本来的で絶対的な価値はなく、あるモノに価値があるとする主体がいて初めて価値というものはでてくるという立場です。

ニヒリストなのになぜ毎日が楽しいのか

だって、人権とか人の命は地球より重いとかなんとかって、それは”そういうことに人間社会ではしましょう”っていうある種、いってしまえばバーチャルな単なる約束事というか目標ですよね。

そういうお約束が通じない場面、たとえば、インドの林でトラに出会った場面を想像してみるといかに勝手な約束かがわかります。トラに”私には人権があって”みたいなこと言ったって滑稽ですよね。

で、そういう根底にある価値観を踏まえたうえで、やっぱり私も人間として人格を保っている以上、同族の人間には価値を感じます。褒められればうれしいし、けなされれば傷つきます。(ここらへん、ヨガでも仏教でもかならず何度も言われるのが、”称賛と中傷どちらに対しても心を動かしてはならない”です)

このまえYoutubeでみた動画で武田邦彦先生がおっしゃっていた人間観が私のものとほぼ同じだったので、それを紹介させてください。

まず、人間には価値があるとします、で、それを数値で表すと1000くらいとします。つまり、人間であるという時点で1000の価値がある。で、商売の天才とか、異常に頭がいいとか、美人とか、格闘技の達人とか、ドラッグ中毒とか、引くほど卑しい心根とか、ポン引きとか、そんな価値に関係のありそうなその他の属性は±10くらいの違いしかないというものです。

ものすごく偉いひとでも1010の価値、人が眉をひそめるような大悪人でも990の価値。

なぜ、そういうふうに思うのかは、正直、理屈では説明できないです。ただ、それが50年近く生きてきた、私という人格の中で構築された人間観だという…