釈迦と群

釈迦は弟子のバカさかげんを甘く見ていたと思います。

マハー・パリニッバーナ経に記述されているように、釈迦が死んだあとにすぐに遺骨の取り合いが起きているのでもわかります。

聖人とその弟子というインドでの伝統的な方法論をとってしまったのが運の尽き。

そして、釈迦レベルの聖者でもほんの数人がこの世にあらわれるくらいじゃ、世の中まったく変わらないだろうと思います。

そして宗教にしてしまうのではなく、あくまで哲学として広めないとよけいややこしくなるだけですね。

釈迦もいま世界中にある”仏教”という形で自分のさとりが伝わるのを望んでいたかというとそうではないと思うのですね、もっと”正しく”伝わってほしいという意図があったはずです。

で、釈迦の”さとり”自体も、あくまでそういうこの世の解釈系のひとつであって、他の解釈系も存在するだろうし、そっちのほうが良ければそっちでやればいいと思います。

べつに釈迦のさとりが唯一無二の”真理”だとは私は思っていません。


”人格”をブートストラップするには、核となる”この世の解釈系”が必要となり、それにしたがっていろいろな思考や行動をしている(ように人格は錯覚する)必要があります。

で、ふつうは社会通念みたいなのでうまく人格が立ち行くわけですが、身内の死とか、いきなりのリストラとか”理不尽”が起きると必死に人格はその”意味”をさがすわけです。で、この世の理不尽とか矛盾にぶちあたったときに、それでも人格として機能するためには、社会通念よりもっと根源的な”説明”が欲しくなります。それが哲学だったり宗教だったりするわけです。これはたぶん理不尽が多い芸能界で、”良い人”っぽい芸能人の多くが宗教に入っていることでもわかります。


ただ、人格の下にある、もっと根源的なもの、PCでいうBIOSレベルで、ある種の生き物としてハードワイアドにどこからか与えられた命令は、

”生きろ”

そして、個体としての自分は死ぬので、

”子孫を残せ”

これがあるだけだろうと思います。





「釈迦と群」への2件のフィードバック

  1. 最古の仏典「スッタニパータ」に関連したブログ記事を検索していて、この大変面白い講義を掲載したブログに出会いました。
    講師のお考えは大変ユニークで興味深いのですが、私の認識とはかなり異なっています。実は、2018年の7月25日に、ドーキンスの「利己的な遺伝子」と「スッタニパータ」の忠実な解釈にもとづいて「愛とは何か 悟りとは何か」という本をアマゾンから電子出版致しました。利己的な遺伝子にもとづく愛とは、子育てに関わる親の利他的行動であり、スッタニパータにしるされたブッダの悟りをそのまま素直に受け入れるなら、それは、死期を悟った人が心安らかに死を迎えるために最適の教えである、というものです。人々に出家と社会生活からのドロップアウトを勧めるブッダの反生物的、反社会的な悟りを現代社会に生かす道を追求してみました。

    1. 田隈先生、コメントありがとうございます。
      さっそく先生の著作「愛とは何か 悟りとは何か」を購入させていただいて、いま読んでおります。
      目次だけ見ても、ワクワクしました。

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