理解とは??

最近、鈴木貫太郎先生がYoutubeで公開なされている数学の問題を気が付いたときに解いてみたりするのが楽しくなってきています。

 

上記の動画で面白いエピソードが紹介されていて、鈴木先生はつねづね、小学生に”なぜ円錐とか錘の体積が円柱とか柱の体積の1/3になるか”をどう説明するか悩んでいらっしゃったそうです。

で、あるとき別の教室でその説明を小学生にしかけている講師の方がいらっしゃって、鈴木先生は自分の講義をしなければならなくて聞き逃したので、あとで、その講師の方にどう説明したのか尋ねたそうです。

「ええ、錘以外の部分が柱の2/3の体積になるからです」

…まぁ、私も鈴木先生同様に、
「ぶっちゃけ、コイツやべーだろ…」
と思うのでしょうけど…

しかし、もしそのレベルの目くらましみたいな説明で小学生が納得するのなら、それも最終手段としてアリなのかなと最近は感じています。

諸法無我とアートマン

釈迦はというものはないといいました。それが諸法無我

ヨガでは、アートマン(真我)というものを想定しています。

で、私は正直、我があるかないかは、どうでもいいなぁと思っていました。


ヨガの文献で、”何者をもあなたのアートマンを棄損することはできない”なんて読んだことがあるんですが、その言わんとしていることが最近はなんとなくわかるような気がします。


あえて、図形的にたとえると、理想の我というのは点でしょうか。

で、点というのは、面積がないわけでほんとうは平面上で見えるはずがないんですね。

でも、点というものを想定することはできる。で、点の集合として図形とかも想定できるし、そういう意味では点はあるとも言えます。

で、この我があからさまに、でかい円になっている人が多くいます。つまり面積をもっているわけです。その面積には、”私は美しい”、”私は賢い”、”私は生まれが良い”とか、いろいろ抱え込んでいるわけです。で、そういう肥大した自我という円からなんらかのご自慢の属性が削られたり、ケリを入れられたりすると(つまり敬意が払われていないと感じると)苦痛とか怒りとして感じられるわけです。

で、それじゃ辛いだろうから、我というのは無いと考えよというのが釈迦で、アートマンは面積がないんだから、削られたりする苦痛もないはずというのがヨガかなと思います。


もしかしたら、こういうたとえはすでに誰かがしていて、私がそれを読んだりしたのを忘れてしまっているだけかもしれません。




釈迦と群

釈迦は弟子のバカさかげんを甘く見ていたと思います。

マハー・パリニッバーナ経に記述されているように、釈迦が死んだあとにすぐに遺骨の取り合いが起きているのでもわかります。

聖人とその弟子というインドでの伝統的な方法論をとってしまったのが運の尽き。

そして、釈迦レベルの聖者でもほんの数人がこの世にあらわれるくらいじゃ、世の中まったく変わらないだろうと思います。

そして宗教にしてしまうのではなく、あくまで哲学として広めないとよけいややこしくなるだけですね。

釈迦もいま世界中にある”仏教”という形で自分のさとりが伝わるのを望んでいたかというとそうではないと思うのですね、もっと”正しく”伝わってほしいという意図があったはずです。

で、釈迦の”さとり”自体も、あくまでそういうこの世の解釈系のひとつであって、他の解釈系も存在するだろうし、そっちのほうが良ければそっちでやればいいと思います。

べつに釈迦のさとりが唯一無二の”真理”だとは私は思っていません。


”人格”をブートストラップするには、核となる”この世の解釈系”が必要となり、それにしたがっていろいろな思考や行動をしている(ように人格は錯覚する)必要があります。

で、ふつうは社会通念みたいなのでうまく人格が立ち行くわけですが、身内の死とか、いきなりのリストラとか”理不尽”が起きると必死に人格はその”意味”をさがすわけです。で、この世の理不尽とか矛盾にぶちあたったときに、それでも人格として機能するためには、社会通念よりもっと根源的な”説明”が欲しくなります。それが哲学だったり宗教だったりするわけです。これはたぶん理不尽が多い芸能界で、”良い人”っぽい芸能人の多くが宗教に入っていることでもわかります。


ただ、人格の下にある、もっと根源的なもの、PCでいうBIOSレベルで、ある種の生き物としてハードワイアドにどこからか与えられた命令は、

”生きろ”

そして、個体としての自分は死ぬので、

”子孫を残せ”

これがあるだけだろうと思います。