技が衰えるとき

身近な例やマスメディアを通じて観察していて、ああたぶんこの人は自分が技ができるから偉い、ひとかどの人物だ、自分は尊敬されるべき存在だと思っているんだろうなという人がぽつぽつといます。

私の率直な感想を言えばこの時点で、

「てめぇなんか、これっぽっちもエラくねぇよ、長期間練習してある程度適性がありゃうまくならねぇほうが変だろ」

と思います。

まぁ、でも世の中には技に生きる人っていうのもいるんだろうし、これは私の個人的な感想でしょう。技に魅せられて尊敬する人もいるでしょう。

じゃぁ、交通事故や病気で技ができなくなったら、自分の価値はなくなると思っているんですかね。(その技に関する商品価値は暴落するのは確かですが)

また、非常に本人にとっては気の毒なんですが、はたからみていて、もう技が明らかに衰えている高齢の方がいます。

本人はかなりキレのある技のつもりで今もいるところが、悲劇を通り越してもはや喜劇です。

やはり衰えっていうのは自覚するのは至難の業なのかなととても感慨深いです。

私の数学力

若いころの私は数学には最大級の敬意を払いつつ、自分は超一流になるほどには数学に向いていないと感じていました。

一応、前提として大学は工学部を卒業しているのでいわゆる理系です。つまり「向いてない」と言ったっていわゆるフツーの人よりははるかに数学には適性があるのは知っています。

とはいえ、若いころはまず数字(1, 2, 3, 4 …など)そのものへの興味がそれほど強くないということは自分でも自覚していました。若いころはパズルとかもすごく嫌いでした。なんかイライラするんですね。

で、今現在、英語の生徒が一人だけになって残りの生徒には全員に数学を教えています(英語を教えられる人が今は多いんですね)。

面白いのは、塾で教え始めた頃は、中学数学でさえすっかり忘れていたことです。講師志望で面接を受けたとき数学、国語、英語のテストを受けたんですが、数学が突出してできなかったことを覚えています。

で、からの~ということで、中学の教科書を買ってポツポツと思い出し始めて(大人の事情なんでしょうけど教科書は特定の書店でしか手に入りません)、いまは普通の高校入試問題はスッと解けるまで復活しました。難関高校の入試問題を今はかたっぱしから解いてます。

で、数学には幾何学(図形)や代数学などいろいろな分野があるのですが、私は図形がほかの分野より苦手なのが分かり始めました。

関数や方程式の応用(いまは利用問題というらしいですね)は、

「そりゃ考えりゃ解けるわな」

という感じで難関高校の問題もいけるんですが、図形の問題に関しては、たとえば昨日は3問連続でスッとはとけませんでした。

ここで、

「しめた、これは解き方がわからない人の心の動きがわかる!」

ということで、何がどうして、どういう理由で解けなかったのかをいろいろ分析しています。

今は高校の数学もだんだん思い出してきていますが、統計学、確率論、整数論などすべての分野がすごく面白く感じられます。

確率論はギャンブルとつながっているというロマンを、
整数論には数学の基本中の基本でありながら底知れぬ奥の深さを、
統計学は大量のデータをどう理解しやすくあつかうのかという技の妙味を、
などなど、それぞれの分野にそれぞれなりの魅力を感じています。

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ハタ・ヨガは自分の心と身体が話し合う時間

最近、私がハタ・ヨガをやるときは、以前あった

「体を柔らかくしてやろう」

「新しいポーズをできるようになって偉くなろう」

といった余計な料簡がとれて、都市生活をしているとおざなりになりがちな自分の身体の出しているシグナルを感知することに充てられています。いわば自分の身体と対話する時間です。

やるポーズはいつも同じで、太陽礼拝からはじまって、前屈、開脚、背骨をねじるアルダマツェンドラーサナ、戦士のポーズ、シルシアーサナなどなど。

昨日はよく開脚できたけで、今日はちょっと左ももの筋に違和感を感じるから軽くやって終わりにしようとか、その日、その日の身体のコンディションを文字通り感じます。

今日はなんかだるくてやる気がしないなという日でも、よし、太陽礼拝だけちゃっちゃとやって終わらせようと思って始めると、太陽礼拝が終わった後には、さらに他のポーズもやりたくなることが多いです。

ヨガの完全呼吸を太陽礼拝の間だけでもやると、気分が整えられるのが原因ではないかと推測しています。

もちろん太陽礼拝の後でもうやめたいと思えば、それ以上、自分に強制はしません。