仏教と家族

釈迦は家族に否定的です。

理由は、家族を愛するという動物の基本的な本能に根差した執着の行きつく先は、それだけ膨大な苦しみの種になりえるからです。

実際、釈迦は自分の子供に、ラーフラ と名付けました。

その理由として

「我が破らねばならぬ障碍(ラーフラ)ができた」

と釈迦が言ったという説があるそうです。

まぁ、冷静に考えて親として人でなしですね(笑)。

あと、妻と家を捨てて出家していたある有望な弟子が、親族や妻に後継ぎの子供をどうしてももうけてほしいと泣きつかれて子をつくったと聞いた釈迦は、人格者の釈迦にしては珍しく、マジ切れして口汚く罵ったらしいです。

釈迦は家族愛という執着さえ捨てよというわけです。なぜなら苦しみのもとになるからと。
たしかに、思考の流れとしては100%正しいと思います。

ただ、「わかっちゃいるけどやめられない」という名言もある通り、そこまで徹底して苦しみの種を自分から抜き去ることをなしえる人がそれほど多くいるのかという疑問があります。

また、逆に、人類全員が釈迦の説に賛成し実践したら、理論上、人類は消滅しますね。

ただ、釈迦のとなえる、そういう一種の狂気と思えるほどのいわば極論に、抗いがたい魅力を私が感じているのも事実です。

日本のお店の気遣い

よくスーパーやコンビニで、

「食べ物とそのほかの物で、袋を分けますか?」

と聞かれるんですが、一緒にしてもらっています。

正直なところを白状すると、なぜ、ほかの物(洗剤など)と食べ物を分けるべきなのかもわからないし、分けてほしいという人が存在することも、自分が訊かれて初めて気が付きました。

世界的に見ても日本の商店の気遣いはかなり発達しているらしいですが、正直、日本生まれで日本育ちの私でさえ、もうなにがなんだかわからないほど発達してしまった感があります。

ニヒリストなのになぜ毎日が楽しいのか

ニヒリズム

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ニヒリズムあるいは虚無主義(きょむしゅぎ、: Nihilism: Nihilismus)とは、この世界、特に過去および現在における人間存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である。名称はラテン語の Nihil (無)に由来する。
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以前からうすうす気が付いていたんですが、私はたぶん根底においてはニヒリストなんだろうなぁと最近、意識の上で自覚しました。

本質的に価値がないんだから、偉そうにしている人とかみると可笑しくて可笑しくてしょうがありません。

ただ、ヤクザの事務所なんかで怖い人に囲まれれば、その場ではサバイバル的な意味においてはヤクザの偉い人のパワーは感じます。

30か国語話せる人とか、数学の天才とかと、ポケモンが異常に得意な小学生との間に、本質的な差を見出しえません。

金持ちとか、ちゃかすことがタブー視されている神聖な人とかと乞食に本質的な価値に差をみいだしえません。

自分でも不思議なのが、じゃなぜ、毎日が楽しいのかということです。

塾に教えに行くときとか基本的にワクワクしながら家を出ます。

ひとつの思い当たるのは、何事もゲームをプレイしている感覚があるということです。
ゲームをプレイしているときは、そのゲーム内で価値があるモノゴトには、価値があるというていをとって、思考にもそういう枠組みをはめてやるわけです。

気が向けば加筆します。