対人恐怖症のひとへ

私も対人恐怖症でした。でしたと書いたのは力技で治したからです。

私の個人的体験なので参考になるかわかりませんが、結局慣れだなと思っています。

慣れと言ったって、ほんとうに力技で慣れるのはしんどいことです。ただ、人間は慣れるというありがたい機能がそなわっているので、死ぬ気でやれば慣れます。

どんぐらいつらかったかと言うと、まず、塾で教えに行く2時間前くらいから、極度の緊張が始まります。脇汗がとまりません。鼓動もどんどん速くなります。

同僚はやさしいので、尋ねても口を濁して言いませんが、最初のころの塾での私は顔が引きつって、声もでかくなったりして、かなり挙動不審だったと思います。

また、集団授業をやる初日は、直前に何回もトイレで嘔吐しました。授業中も2リットルの水を生徒の前でがぶがぶ飲んで、嗤われたりしてました。

異常な緊張状態がつづくわけです。

あまりに緊張と恐怖感がつよすぎて、ヨガでならった呪文を心の中で唱えたりして落ち着こうとしたりしてました。深呼吸もためして、確かに効くなと思いました。

で、めでたく慣れました。いまは偉そうに集団授業とか普通にしてます。

あのころ、挙動不審な私に温かく接してくれた各方面のみなさんには、深く感謝しております。

ありがとうございました。

修行僧

以前テレビで見たんですが、比叡山だか高野山で修行僧が人知れず戒律を守り生活しながら、生活時間の大部分を大勢が同じところをグルグル回りながら、世界平和だかなんだかをぶつぶつお祈りしているというのを紹介していました。

それを見た私の正直な第一印象は、「こいつら最高のごくつぶしだな」です。

まず、お祈りしたって世界平和は実現しないだろうという当たり前のことが一点。

まぁ、一般の善男善女はそういう「ありがたいこと」をしている人たちがいると噂にきいて心が多少やすまるかもしれません。

いまだに年配者の方たちは、「だれそれが仏門に入ったらしい」ときくといたく感動することが多いようですが、私が見聞きした中では、一般社会で通用せず、ありていに言えば役立たずなために、逃げ場所として仏門に入る人が多いなという印象をもっています。それと若いときに「やらかした」人が贖罪的な意味合いで自分の精神安定のために入っているんだろうと推測できることもあります。

同じ役立たずとして言わせてもらえれば、それは「逃げ」だと思います。ただ逃げるのがいけないと言いたいわけではありません。俺だって逃げたいです。

なぜ逃げなのかといえば、僧侶は社会で一定の評価をあたえられているため、戒律を守る生活を送るという「芸」を人々に見せることに成功すれば、一転、尊敬を集められる可能性が出てくるからです。

役立たずといったって、もし五体満足ならさすがに肉体労働くらいはできるでしょう。でも一般に肉体労働は世間的評価は低いでしょう。そこを一発逆転を狙って坊主になるっていうのが小賢しさを感じます。

自分に与えられた仕事をそれがどんなに社会的地位が低くても、誠実に行うことこそが本当の修行じゃないでしょうか。ひとから軽んじられたっていいじゃないですか。

これは、私への戒めでもあります。私も以前、出家したいと思ったことがありました。私だって尊敬されたいです。でも、今は役立たずとしての役割を引き受けて一生を終えたいと思っています。

戒律を守る生活というのは、厳しいようでいて、実はそういう型にはまれば意外に適応できるだろうというのが私の見解です。だって、ヤクザなんかの爛れた生活を送っていただろう人たちが刑務所いってそういう型にはめられれば、5年10年とそういう生活を現実にするわけですから。

ほめられたことがない学生のひとたちへ

塾で中学生、高校生の人たちを教えさせていただいて、3年目になろうとしています。

私塾という性格上、私の注力はいかにテストの点をあげるか、学校の成績をあげるかに、集中しています。

テストの点はある意味無慈悲、ある意味公正です。

20人近くの生徒さんに個別指導させていただいていると、いろいろな生徒さんがいることがわかってきます。全力で勉強しても授業についていくのがやっとの人、たぶん私と同じくらいの理解力があるのに一切勉強しない(「ノー勉」というらしいです。教材一切を学校に置いて来る「置き勉」というのもあるらしいです)ために成績が悪い人。

私は自分の子供がいないので、親の気持ちはよくわかりませんが、そういう一人ひとりが非常に好ましく思えます。ひとりひとりにいろいろな才能の輝きをみることができます。人の気持ちがよくわかり、私が失恋したと言えば自分のことのように傷ついた顔をしてくれる人(あの顔を見て以来、気軽に失恋したと言うのを控えました)。家庭環境が恵まれすぎていて、理解力がそうとうあるのに、授業で眠ってばかりの人。

でも、みんな、それぞれの可能性を追求すれば、将来の「すごい人」になる人たちばかりです。

最近、気づいたのですが、そういう人たちが、そういう各個人のすばらしい面を「ほめられたことがない」ということです。なぜそういうことに気づいたかといえば、私が本心から「あなたにはそういう素晴らしい面がある」と言うと、それに対する反応が、いままでそんなこと言われたことがないという人の反応だからです。

おべっかを使えというのではありません、ただ、本当に、そういうすばらしい面を若い人たちは可能性の芽としてもっているのです。それを伸ばすのが今の私の仕事だろうと思っています。